第30章その2

(第30章その2)


一年前の六月以降にアドルフを見た者がストックホルムにいないのはなぜだろうか。
あのドイツ人は、アドルフをストックホルム行きの船の中で見たと言った。
船はコペンハーゲンからストックホルムまでノンストップだ。
それなら、アドルフは当然ストックホルムで降りている。
だが、奴を見かけた者はない。
コペンハーゲンからストックホルムに来た後、奴はどこへ消えてしまったんだ。
ストックホルム行きの船に乗った目的は、住み慣れたストックホルムへ行くためであったはずだ。
それに、アドルフは去年の六月から一年間どこにいたのだろうか。
ストックホルムにいたなら誰かが彼の姿を見ているだろうし…。


「いったい奴はどこへ消えてしまったんだ」
波の音だけが聞こえてくる海に向って、そうつぶやくと、神谷は足元に転がっていたガラス片を心の中のうっぷんを晴らすかのように、思い切り強く海へ蹴り落とした。
そして、くるりと向きを変え、来たときとは逆に、ロドマンス通りを越え、人気のない寒々としたノーラベルゲン公園を通り抜け、橋を渡り、スコーランホテルの前を通り過ぎ、T・セントラルへと戻っていた。
T・セントラルの前まで来ると、神谷はいったん足を止め、しばらくためらった後、ストックホルム警察署へ向って歩き出した。
アドルフ・グレーペの消息がつかめないのは、彼が何かの罪を犯し警察に捕まったためではないだろうか。
ふと、そんな考えが神谷の脳裡をかすめた。
しかし、アドルフが刑務所に入れられているなら、誰かがそのことを知っているはずだ…。


「ミスター・グレーペとの関係は?」
「友人です」
「彼を最後に見たのは?」
「六月十二日です」
「今年の?」
「ええ」
「場所は?」
コペンハーゲンからストックホルム行きの船の中です」
「船で? それなら、マルメかどこかで途中下船したのじゃないのかな?」
「船はコペンハーゲンからストックホルムまでノンストップでした。ですから、ここで何かの犯罪を犯したために警察に捕まっているのではないかと思うのですが」
「どうかな。まあ、そのような状態ならすぐにわかることだが。ともかく、調べてみよう。それが、ミスター・グレーペの写真だね? ちょっとお借りするよ」
神谷からひと通りの事情を聞くと、刑事は部下にスウェーデン語で何事かを命じ、アドルフの写真を持って行かせた。
次に、受話器をつかみ、
「海外犯罪課のルンドストルムにつないでくれ」


その程度のスウェーデン語は神谷にも理解できたが、それ以上になると無理だった。
神谷は、まだ三十そこそこと思える刑事のいきにベストを着こなした背中に、落ち着かなげな視線を注いでいた。
アドルフ・グレーペが罪を犯していなければ、もはやアドルフの行方は断たれたも同然であった。
彼の足跡は、ストックホルムを最後に消えてしまうのだ。
それ以後のアドルフの足取りをどのようにして探せばよいのか、神谷には見当もつかなかった。


電話を終え、刑事は神谷の方へ向き直った。
ストックホルムで逮捕された外国人犯罪者を調べてみたが、そのリストにはミスター・グレーペは載っていなかった」
吐息とともに深いため息が神谷の口からもれて出た。
〈アドルフが警察に捕まっているなんて、甘い考えだったんだ。何かやっていたら、誰かが知っていて当然なんだ…〉
「一緒に来てもらえますか」
これまでとは違って、何かあらたまった口調で、刑事は神谷を促した。


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