第41章その4

(第41章その4)


ハッカネンは顔色を変えるふうもなく、自分の名を出されたことに反発もせず、沈黙を守っていた。
まるで固い大きな岩のようだった。
そんなハッカネンを、神谷は冷めた眼でじっと見つめていた。
神谷の瞳にはもはや憎悪の色は消え、やりきれない寂しさだけが漂っていた。
怒りよりも、空しい悲しみが神谷の心に拡がっていた。
ハッカネンの背後の窓を通して、雪が降り始めてきたのが見える。
「アントンが死亡した日、あなたはヘルシンキにいた、そしてタリアが殺された日にはアムステルダムにいた。
私は、あなたが彼らを殺した証拠を探した。
しかし、結果は無駄だった。
どこにも証拠はなかった。
だが、アドルフ・グレーペの場合は違った。
あなたは重大な過失を犯していた。


彼は麻薬を飲んで誤って海に落ちたと考えられている。
しかし、彼をよく知る者は彼が麻薬の売人ではあっても、麻薬を飲んだりはしないと証言している。となると、誰かが彼に麻薬を飲ませ海に落としたと考えられる。
彼が死の直前まで乗っていた船に、彼と一緒にいた人物を見たと証言する者が二人いた。
彼らが目撃した人物は、あなただった。
あなたがアドルフを殺したのは、あなた自身の身を守るためだった。
これだけの証拠をそろえれば、あなたをアドルフ殺しの罪で告発することは可能でしょう。あなたはアドルフ殺しを否定できないはずです。
実の父親が息子と一緒に船内にいたのに、息子の姿が見えなくてどうして心配もせず船を降りる父親がいるでしょうか」
神谷は寂し気なうつろな瞳を窓の外に向けた。


空は暗く、雪は風に舞い、激しく窓を叩いている。
「なぜ、タリアを殺したのか。彼女を殺す必要があったのでしょうか」
ハッカネンの方を見ず窓を見たまま、神谷は内心の空しさを言葉にした。
一人ごとのような、つぶやいているような声だった。
ハッカネンは依然として口を開こうとしなかった。
神谷は暗い外に目を向けたまま、ハッカネンが喋るのを待った。
いつまでも、ハッカネンが喋るまで何時間でも待っているつもりだった。
事件について調べ上げたことはすべて話した。
あとは、ハッカネンがどう反応するかだけだった。
五分が過ぎ、十分が過ぎ、やがて二十分も経とうという時になってはじめて、ハッカネンの唇が動いた。


押し殺した低く重い声がハッカネンの口からもれた。
神谷には意外なことだったが、ハッカネンは自らの罪を告白しようというのだ。
「タリア・コッコネンそしてアントン・コッコネンを殺したのは、君の推察どおり、この私だ。アドルフを殺したのも私だ」
ハッカネンの言葉がとぎれた。
彼は組んでいる両手を固く握り合わせた。
鋭い視線がその両手の上に注がれている。
「タリア・コッコネンを殺さねばならなかったのは、彼女が手掛かりをつかんだため、ヨハンセンがフントネンを指さした意味を見つけたためだった。
彼女はそれを私に話してしまった…」


ハッカネンの告白に、もう少しで神谷は驚きの声をあげるところだった。
体中からねばっこい汗が噴き出し、力が抜けていくような気がした。
ハッカネンの両手がコートのポケットにすべり込むのに気づく余裕はなかった。
神谷は頭を後ろにのけぞらし、両眼を閉じた。
〈何てことだ。タリアはせっかくつかんだ手掛かりを、よりによってハッカネンに話してしまっただなんて…〉
再び顔を正面に向けた時、神谷は思わず体を後ろに引いた。
ハッカネンの手に銃が握られ、その銃口は神谷の胸に向けられているのだ。
動けなかった。
「ミスター・カミヤ」
ハッカネンは、しゃがれた低く沈うつな声で神谷に呼びかけた。


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