長編小説(推理小説)「タリア」第1章その1&その2


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作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。



長編小説(推理小説)「タリア」第1章その1


男は夜を待っていた。夕闇が街を包むのを。教会の鐘が午後九時を告げるのを。運河沿いの建物の窓に灯がともるのを。
男は、薄汚れた窓から見える夕暮れの街並みにうつろな視線を向けたまま、夜が来るのをじっと待っていた。

陽が沈みかなり経つのに、空はまだ薄明るい。
夜が始まるまでにはしばらく時間がある。
ローキン通りの一角から人波が通りへあふれ出てきた。劇場が跳ねたのだった。
人波は各々の方角へと散り、やがて薄闇に吸い込まれるように建物の陰に消えていく。
肩を寄せ合いゆっくりとした足取りで、運河べりの小道を駅へ向かう若いカップル。
互いの手と手をしっかり握りあったまま家路に急ぐ中年にさしかかった年代の夫婦。
ナップザックを肩にかけ大きな声で笑いながら、自転車で走り去って行く二人組の少年たち。

「ルーク役の彼、マーク・ハミルだっけ? かわいかったわよね。でも、わたしは断然ハリソン・フォード。お尻がきゅっと引き締まっててすっごくセクシー。それに、あの眼で見つめられたらきっと失神しちゃうわ」
そう言うと、女は気持ちよさそうに頭を後ろにそらし、長い髪を微風になびかせた。
連れの女はあいまいにうなずくだけだった。
ともり始めた街灯の青白い光が、黒く静かに漂う運河に鈍く反映している。
敷石にヒールの音を響かせ、二人は黙ったまま歩いていた。
橋を二つ通り過ぎた時、一方の女がふいに足を止め、
「ねえ、キティ。どうしたの。さっきから黙ってばかりで。そんなにレオンのことが気になるの?」
「えっ、ううん。そうじゃないんだけど…」
キティと呼ばれた女は、弁解するように首を振り、笑みを口元に浮かべた。
「いいわよ。無理しなくて。それで? 彼、いつ帰って来るの」
「来週の月曜よ」
「月曜なんて、すぐじゃない。元気だしなさいよ。あぁ、待ち遠しいってわけね」
「すっごく」
「あらあら、嬉しそうな顔しちゃって。レオン…レオンか。キティの頭の中は彼のことでいっぱいね」
「何言ってるのよ。ケイトだっていい男(ひと)いるじゃない。この間、二人でいるところ見たわよ。彼とはいつからなの?」
キティはいたずらっぽく相手の顔をのぞきこんだ。
「ばれてたんだ? ジェロームとは付き合い出してからひと月ってとこかな。彼ね、とっても素敵なの。優しくて、ちょっとナイーブで、シャイなところがたまらなく可愛いのよね」
「それにタフで、ケイト好みの年下で? レオンが帰って来たら紹介してよね」
「いいわよ」
「一緒に住んでるの?」
「もちろん、わたしの部屋でね」

薄闇が街をおおい始めて、ようやく男は窓から離れた。
乱雑な文字で落書きされ汚れた壁に、汗ばんだ掌を押し当て額をこすりつけた。
何分かの間、男はそうやって口の中でぶつぶつつぶやいていたが、ふいに顔を上げると、部屋の隅にある安っぽいスチール製のロッカーに近寄った。
扉を開け、夏物の麻の白い上着を手に取ると、ハンガーに掛かった六本のネクタイの中から無意識のうちに一本を選んだ。
それをワイシャツの襟にはさみ、ところどころ脂汚れで曇った鏡に自身を写し出す。
金髪で、遠くを見るかのような憂いを含んだブルーの瞳。優しさと冷たさが入り混じったような端正なマスク。
〈準備は整った。今夜は彼女、来るだろうか〉
男は薄い唇をわずかにゆがめ、満足げにつぶやいた。
部屋の鍵が掛かったのを確かめると、階段を音もたてずに一歩一歩ゆっくり降りていった。
ひび割れの目立つ建物の裏手に回り、そこから丈の低い雑草におおわれた空地を通り抜け、人通りのほとんどない裏通りに出た。
男は車のキーを指先でいじりながら、めざす場所へと向った。車は、男の住む建物から徒歩で七、八分離れた場所に駐めてあった。
運転席につくと、男は背もたれに体を倒し、バックミラーを見つめた。
そして、ささやくような声でつぶやいた。
「あわてなくてよい。時間はたっぷりある。夜はまだ始まったばかりなのだから」
男はカーステレオのスイッチを入れた。
ストラビンスキー、『春の祭典』が聞こえてくる。
何かが起こりそうな、そんな予感を与えてくれる旋律。
この不協和音を聞いていると、またたく間に白日夢の世界へと引きずり込まれてしまう。
五分、六分、何分過ぎただろうか、男はうっとりした表情でストラビンスキーに聴きいっていたが、やがて、静かに車をスタートさせた。
〈今夜は、きっと、彼女はやってくる。きっと…〉

(第1章その2へ)



(第1章その2)

「まだ九時前よ」
「どこか行ってみる?」
「そうねぇ。すぐ近くに、おしゃれでダンスも出来るお店があるんだけど」
「ジェロームとはそこで?」
「まあね。若くておいしそうな男の子がいっぱいいるわよ。行ってみる?」
「いいわ」
「期待どおりの店だから」

男は、ただひたすら、フロントガラスの向こうを見つめていた。
ヘッドライトに浮かびあがった薄闇を。
埋め立て地を走るアウト・バーンのずっと先を。
「くっ、もうすぐだ」
道路標識がライトに浮かびあがり、男は口の中でつぶやいた。アムステルダム市内へ五キロの地点だった。
その時だった。
標示板の下にいる子供の姿が視界に入った。
おさげ髪をリボンで束ねた十二、三歳の女の子。右手の親指を空に向けて立てている。
男はスピードを緩め、少女の前で車を停めた。
ドアを開けてやる。
「ありがとう、おじさん」
「お家はどこ? 乗せてってあげるよ」
「やったー。助かっちゃう。家は警察署の向かいよ」
「運河沿いにある大きい警察?」
「うん、そこの向かいのアパートなの」
少女は男の方に体を向け、笑顔で声を弾ませた。
そして、男の胸にたれ下がっているネクタイをじっと見つめて、
「その赤い蝶々、すごくきれい。なんていう蝶々?」
「さあ、なんだろう。でも、どうして、こんな蝶々に?」
「うん、今、学校で生物の授業をやっていて、蝶々の標本を集めてるの。だから聞いてみたの」
と言ってから少女は顔をしかめた。
「どうしたの、そんな顔して」
「その曲、大きらい。学校で聞かされるのと同じ曲だもの」
「ストラビンスキーがかい」
「うん、それ聞きたくない」
「でも、おじさんはこれを聞くと、とても気持ちがよくなるんだよ」

「すごいじゃない、ここ」
「でしょ。男だらけ。よりどり見どりよ」
「ケイトったら。おバカ」

警察署の向かいのアパートで少女を降ろしてから、一時間近くがすぎていた。
男の運転する車は旧市街を囲む一番外側の運河に沿ってゆっくりと進んでいた。
ヘッドライトは何かを探し求めているかのように執ような冷たい光を放っている。そして男の眼にも、ライトと同じく不気味な冷たい光が宿っていた。
男は恍惚とした顔付きで眼を輝かせ、ただひたすらハンドルを握っていた。
そして車は、プリンセン運河に沿った人通りの少なくなってきたこの道を、すでに四度も往復していた。

「ケイトとジェロームのこれからの成り行きに」
「キティとレオンの幸せに」
「乾杯」
二人はジョッキを掲げ声を合わせた。

ふいに男は車を止めると、身をわずかに左にねじりサイドウインドウに顔を向けた。
男の視線は、赤茶けたレンガ作りの古風な建物の一点に向けられていた。
白く滑らかな二本の脚。
二つの露出された脚は…。
男は想像の中で、裸体を見つめていた。
〈柔らかく白く熟れた肉体。この手でつかむと、その体は…〉
男がのど仏を震わせて唾液をのみこんだとき、女は、背後に鋭い視線を感じとった。
手摺りを磨く手を止め、突然、振り返った。
二人の視線は、一瞬、ぶつかったが、男は表情を変えることもなく何もなかったかのように正面に向きなおった。
そして、車は再び同じ道を、滑らかに走り出した。プリンセン運河沿いの道を。

「かれね、旅行社に勤めてるの。だから外国へ行く機会が多いんだって」
「あら、そうなの? なら、レオンと似たような仕事だわ。あの人と気が合いそうな感じね」
女は軽く相づちを打った後、今もその行為の最中にいるようなうっとりしたまなざしで、
「ジェロームって、とても上手なんだ」
「やめてよ、こんなとこで。ケイト、もう酔ってるの? 周りの男(ひと)に聞こえちゃうわよ。おバカ」
女は言いながら、あわてて周囲にちらっと目をやった。
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだけど。ちょっと寂しくなっただけ。もう三日も会ってないんだもん」
「もう? 私なんか二週間よ」
数分間、二人の女はジョッキを手にしたまま無言でいた。
静かなスローバラードが聞こえている。
ニルソン、『ウイズアウト・ユー』。
「わたし、二ヵ月になるの」
キティと呼ばれた女がつかの間の沈黙を破った。
「えっ。何が?」
「妊娠したの。昨日、病院で診てもらったの…」

男はハンドルを握っている片方の手を離し、腕を伸ばした。
時計は十一時を回っている。
男は夢みる表情でうっとりと目を細め、闇に向って唇をわずかに突き出した。
〈さあ、おいで。優しく口づけしておくれ。ふっふ、俺にはわかるんだ。もうすぐ彼女がやって来るのが〉

「レオンが帰ったら電話ちょうだい」
「いいわよ。今度は四人で」
「バイ、キティ」
女たちは反対方向に別れた。一人は駅前のバス停へ。そして、一人はプリンセン運河沿いのアパートへと。

男の目は、女が橋を渡り運河沿いに歩くその後ろ姿をとらえた。
ライトは女の全身を背後からなめるように照らす。
〈二十歳か、それとも二十一? くっく、緑色のブラウスに、薄手のブルージーンズ。きっと、きっと今夜の彼女にちがいない〉

(第1章その3へ)