長編小説(推理小説)「タリア」第1章その3&その4


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長編小説(推理小説)「タリア」第1章その3


車は速度を落とし、女に近寄った。
「失礼ですが」
男の声に、女は車窓へ顔を向けた。
「カールトン・ホテルへはどう行けばいいのでしょうか」
落ち着いたていねいな声だった。
「三つ目の橋を渡って左。すぐ見つかりますよ」
女は、白く細く長い指でその方向を指し示した。
「ありがとう」
男は笑顔で礼をいい、車を前進させる。
車は、三つ目の橋を通り過ぎ、四つ目にさしかかる地点でもと来た方向へ向きを変えた。
〈俺は彼女に好印象を与えたはずだ〉
男は口元をゆがめ、ほくそえんだ。二、三分車を停止させた後、前よりもさらに速度を落として運転した。
先刻の女が男の視界に入ってくる。
男は再び車を女の横に近付けた。
そして、先刻と同じ声で、落ち着いたていねいな声で言った。
「さっきはありがとう。おかげで助かりました」
「よかった。お役に立てて」
男の人なつっこい微笑につられて、女は笑みを返した。
「どこまで行かれるんです。よかったら乗りませんか。送らせて下さい」
男は女の次の行動を見通していた。これまでの経験で知っていた。今の言葉を拒む女がいないことを。
〈なんて巧い言葉なんだろう。「送らせて下さい」〉
車は、目的地に着くのを嫌がるように、速度を落として走っていた。
「私ですか。アントワープに住んでいます。明日は知り合いの結婚式がここであるもので」
「結婚式…」
その言葉の響きに、女はうっとりと表情を緩めた。
「ええ。それで今夜はホテルに泊まっているんですよ」
女は、何気なく、左の薬指にはめたエンゲージ・リングに触れた。
その所作に男が気づき、
「どんな男(ひと)か当ててみましょうか」
「えっ?」
女は不意をつかれたのか、瞳の大きな眼を見開いて男をみつめた。
「婚約してらっしゃるんでしょう」
男の言葉に、女は顔を赤く染めた。
車が目的地に近づくにつれ、男の心臓は鼓動を早めた。ハンドルを握る手がじっとりと汗ばむ。
男はなぜか体をひどくこわばらせていた。
「もうすぐですね」
男の声の調子が変わり、かすかに震えていたのを女は気付かなかった。ただ、うなずいただけだった。
「もうすぐですね」
喉につかえたような声が同じ言葉をくり返す。
女はまたしても、男の声の変化に気がつかなかった。
目的地のすぐ近くまで来ていた。
「そこの通りを左に折れて三番目の建物がそうです」
車は女の指さす方に曲がった。
女は降りる身仕度をした。
だが、降りなかった。降りられなかった。
車は目的地を通過していた。
女は男が勘違いしたのだと思った。
「今の所がそうだったんですよ」
女は男に示すように後ろを振り返った。
「知ってます。でも、あなたも見たでしょう。あそこに、猫の死骸がころがっていたのを」
男は呻くように苦しい声を出して言った。
女は男の方にとまどった顔を向けた。
充血しきった両眼。ぴくぴくと痙攣を起こしている頬。喘いだ呼吸。
女は、初めて、それらに男の異常を感じとった。冷たい悪寒が背筋を走った。
「こ、ここでいいです。降ろしてください」
今にも泣き出しそうな女の声。
しかし、それは無視された。
男はいきなりアクセルを強く踏み、車を加速させた。
女は飛び降りようとしてドアの把手をつかむ。
男の手が伸び、女の体を引き戻す。
「どうしたんですか。私と一緒にドライブするのがそんなにいやですか」
言葉はていねいであったが、震えは収まっていなかった。
「お願い、降ろして」
女の哀願に、男は冷たい声で答えるのだった。
「すぐに降ろしてあげよう」
「今、今すぐ降ろして」
女は涙声で訴えた。
「だから、すぐに降ろすと言ってるんだ」
男は女の肩をつかみ、体を手荒く引きよせた。
声の調子は今までとはまるで違う、野獣の吠えるような太く低いものに変わっていた。
「俺のいうとおりにすれば降ろしてやる。いいな、俺のいうとおりにだ」
女は眼を閉じた。この瞬間が夢であることを願った。
悪夢でもよいから、現実でないように。
だが、男の凶暴な声が、女に現実であることを告げたのだった。
「約束しよう。俺の言葉にしたがえば降ろしてやる。だからお前も約束するんだ。言うとおりにすると」
男の声が続いた。
道を尋ねたときの、あのていねいで落ち着いた声はどこにもなかった。
「返事は。わかったら返事しろ」
「は、はい。言うとおりにします」
女は、身を震わせながら唯ひとつのことを考えていた。
ああ、レオン。助けて。こんなことになるなんて。イヤ、イヤ、お願い。今すぐ助けて。
男は女の左手をつかみ、力まかせに女の体を自身の方へ引き寄せた。
「いや…嫌!!お願い、こんなこともう止めて」
男の良心を少しでも呼び覚まそうとしてか、女は涙を流し必死に訴えた。
しかし、それは無駄だった。それどころか、ますます男を凶暴にさせただけであった。
男はすべての仮面を脱ぎすて、今や狂える本能をむき出しにしていた。
「止めてだと。お前がいつもしていることを、この俺にはできないというのか」
男はさらに力をくわえ、女の手を押さえつけた。女は、もはや抵抗するのを諦めていた。
「ようし、その調子だ。そっちが守れば俺も約束を守る」
男はゆっくりと手を離すと、ダッシュボードを開け、何かを取り出した。
そして、その手を女の首に回す。
女は首に冷たく鋭い感触を覚えた。
抵抗は無駄だった。レオン、許して。こんなことになるなんて。許して、レオン。

(第1章その4へ)





小説「タリア」(第1章その4)


車はすでにアムステルダム郊外を越え、ユトレヒト方面へと向っていた。
女は一刻も早く、この狂気に満ちた行為から逃れたかった。恐ろしく不安だった。
男の要求は果てしなく続くように思え、たまらなく恐かった。
わたしは絶対にこの男に犯されてはいけない。レオンのためにも、絶対に。それに、それに、ああ、わたしの赤ちゃんが…。
女は、細い身を震わせた。
「もういい、止めろ」
言うなり女の髪を乱暴につかみ、頭を引き上げた。
ものすごく強い力だった。数本の髪の毛が男の指にからみついた。
「いつまで同じことをくり返してるんだ。儀式は始まったばかりなんだぞ」
邪悪で残忍な声に、女は恐怖にあえぎ絶望した。
このままではわたしは犯される。でも、どうすればいいの。男の手を振りほどいてドアを開け…。
「お前が何を考えているか言ってやろう。わかってるぞ。俺の手を逃れ、ドアを開けて飛び降りようと考えてるんじゃないのか。ふん、無駄だ。この速度で飛び降りたら、死ぬか大怪我をする。どうだ、図星だろう。くっく。怪我して逃げても、俺はすぐにお前を捕まえてやる。儀式は最後までやるんだ」
男は死体に喰いつく獣のようにギラギラした眼で女を見つめた。
その眼は冷たく異様な光を放っていた。
女は眼を閉じた。男の狂った眼を見るのがたまらなく恐かった。
「その上着を脱げ。早くしろ」
男の興奮した荒い声が発せられた瞬間、女は首に熱い痛みを感じた。
と同時に、生温かい物が首から胸に伝うのを感じた。血だった。
最初の痛みはすでに感じられなかった。恐怖が、すべての感覚を圧倒していた。
車は速度を落とし脇道へそれた。
道は一キロほど行ったところで二つに分れていた。
男は右を選んだ。
細い林道だった。そのまま、二、三分進んだところで車は止まった。
街灯などどこにもない薄暗い場所だった。
男は右手に持ったナイフを女の首にあてた。
女は男のなすがままであった。男の狂気の前に、抵抗しようとする気力さえ完全に失くしてしまっていた。
〈柔らかく白く熟れた肉体…。〉
男は半ば眼を閉じ、
「お前の男の名前はなんていうんだ」
男が突然、顔を上げて言った。
女は答えなかった。
答えようとしても唇が震え、口がきけなかった。
「どうした、俺の聞いたことに答えないのか」
「レ、レオン」
女はようやくそれだけ言った。
「レオン? レオンだけじゃわからんぞ」
「レ、レオン・カレヴォルト」
「お前は?」
悪意に満ちたいやらしい声だった。
「キティ」
「キティ・カレヴォルトになるんだな。ふっふ。レオンに教えてやるぜ。このふしだらなありさまをな」
男は声を高くはりあげ笑い始めた。
女は思わず両手で耳をふさいだ。
悪魔の笑いは数分間続いた後、急に静まった。
男はナイフを女の首から離し、ダッシュボードに戻した。
「お前たち女は、どうしていつもそうなんだ」
軽蔑をこめた声で吐き捨てるようにして言った。
「えっ。そうじゃないのか。男がいるってのに他の男に抱かれてこのていたらくだ。売女どもめが。えっ、どうなんだ」
男は女の髪をつかみ、口の両端をわしづかみにした。
増悪に満ちた目で女を見おろし、
「この売女が! お前は俺に何て言ったか覚えているか。俺が何もできない、役たたずだと言ったな。ふっ、もう一度言ってみろ。どうだ。こうか。もっと泣け!」
男はそう叫ぶと、急にやさしい声色で、
「ネクタイを外せ。俺の首に巻いてあるやつだ」
「は、はい…」
男のいうとおりに女はした。それがどういう結果になるのかも知らずに。
女はただ待っていた。
男が自分を解放してくれるときを。狂気から逃れうるときを。
ああ、神様、早くこの悪夢が終わりますように。女は祈った。
男は女の首にネクタイを巻きつけ、再びあの悪魔の笑いを奏で始めた。
女は海で溺れる人間のように必至で手足をばたつかせた。
空気を吸いこもうとしてもがけばもがくほど苦痛は増し、一瞬後には、両目は真赤に充血し顔は紫色に変色し出した。
男の手につかまれたネクタイが女の喉を絞めつけていた。
女は薄れゆく意識の下で何かを叫ぼうと口を動かした。
死にたくない。殺さないで。レオ…。それは声にならなかった。
ネクタイは女の喉に深くくいこみ、すでに声帯を潰してしまっていた。
女がぐったりして動かなくなって、男はようやく手を離した。
膝の上に倒れた女の顔をのぞきこむ。
異様に大きく見開かれた目。唇からはみ出した紫色の舌。鼻から流れ出した血と鼻汁。
臭気が車内にたちこめ、男は鼻をひくひくうごめかした。
女を膝の上に抱いたまま、男は座席に背をもたせ、うつろな瞳で薄闇をじっと見つめた。
数分の間、そうやっていたが、やがて静かに身を起こした。
カーステレオに挿入したテープがいつの間にか終わっているのに気づくと、男はテープを裏返した。
シェーンベルク、『浄められた夜』。
重く静かな曲の中にところどころ頭をもたげようとする狂気の旋律。
しかし、それもやがて鎮まり、安定した落ち着いた響きが全体を支配する。ちょうど、男が徐々に正気をとり戻していくのと同じように。
〈彼女は眠ってしまった。夜はまだ始まったばかりなのに。どうしていつもこうなんだろう。たまにしか会う日がないのに。
でも、心配しなくていい。誰にも邪魔されない寝場所に連れていってあげるから。羊水に満ちた母親の子宮の中のように心地よい場所に〉


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