長編推理小説「タリア」第7章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。


長編推理小説「タリア」第7章その1


雲は、空を西から東へ駆けぬけるように流れ去り、ヘルシンキは木枯らしの季節を迎えようとしていた。
マンネルハイム大通りの両側に並ぶ木々の葉は茶に変色し、木枯らしに衣服をはがされるのをじっと待っている。
太陽は日一日と日照時間をちぢめている。
季節は夏の終わりをつげていた。人々は開放的な夏を思う存分すごした後の満足感にひたっていた。
だが、それもやがて迎えるべき長くやり切れない厳冬までのほんの一時期であるのだが。北欧に秋と呼べる季節があるなら、今はちょうどそれにあたるかも知れない。


神谷正人がヘルシンキに着いてすでに二週間が過ぎていた。収穫のないむなしい十四日間であった。
正人はタリアの住所録に記されている人物およびタリアに宛てられた手紙の差出人、彼らの全員を訪ねて回った。住所録にはAからZまでの欄に計二十五名の名前と住所・電話番号が記されている。
ただ一人、住所も電話番号もなくハッカネンという名前とその横に、住所も電話番号もわからないという印なのだろう、?マークがつけられてHの欄に鉛筆で薄く走り書きされていたが、その人物をのぞいて全員を訪ねてすでに話を聞き終えていた。
しかし、それもむだだった。
彼らの誰しもがタリアのアムステルダム行きに心当たりもなければ、付きあっていたと思える人物に心当たりもなかった。
もちろん、タリアが秘密にして出かけていた場所を知る者は彼らのなかに一人としていなかった。
そして謎の男に該当する人物もそのなかにはいなかった。


謎の男。
タリアと付きあっていたと思える人物を神谷はそう呼んだ。
この男がタリアと知りあったのはいつごろのことなのか。そしてそのきっかけは。
神谷の疑問はふくらんでいくばかりであった。
神谷は駅前の喫茶兼レストラン『カイボ・グリル』の最奥部に腰を落ち着けていた。
そこからは駅周辺の光景がいやでも目に入る。
彼はテーブルに両肘をつき、通りを行きかう人の姿をぼんやりと目で追っていた。卓上には、彼が三十分も前に食べ終えたスパゲッティの皿が置かれたままである。
神谷は上着の胸ポケットから手帳を取り出した。そこには、彼が訪問した二十五人の人物から得た情報が書きこまれている。
けれども、その中に、タリアを殺害した犯人を探り出す手掛かりとなるものはなかった。
神谷は焦りを感じていた。
事件に首をつっこんだ当初、彼はタリアをアムステルダムへ行かせた人物を容易に見つけ出せると考えていた。彼だけがつかんでいた理由によって。
すなわち、彼女をアムステルダムへ行かせた人物がいるはずだとする理由によってであったが。
ところが、結果はこの通りだ。
タリアの交友関係を調べつくした今、神谷が次に打つべき手はもはや何もなかった。
それは敗北を意味する。


神谷は手帳を閉じ、腰を上げようとした。
その時、駅から通りを横切ってこちらへやって来る若い娘の姿が目に入った。
セミロングの淡い金髪を内側に軽くカールさせたやや丸味をおびたコケティッシュな顔。印象的な青く大きな瞳。薄っすらと紅を塗った唇。それに、片脚をひきずるようにして歩く姿。
メイユ・コッコネンだった。
メイユはドアを押して店に入り、神谷を見つけると、体をわずかに左右に揺すり早足で近づいてきた。
「わかったのよ。さっき、アンネリに会ったの。それで偶然わかったの」
神谷と向いあって座ると、肩で大きく息をしながら興奮気味に喋り出した。
「アンネリが見たって言ってたわ。その…タリアが男の人を部屋に泊めてたらしいの」
神谷は思わず息をのみ、身を固くした。
神谷にとっては認めたくないことだった。
「わたしが部屋を空けた時だから、あれは五月六日の朝だわ。アンネリはキャンプ用具を返しに私たちの部屋に行ったの。わたしはいなかったからタリアが出て、その時ドア越しに男の人の姿が見えたって言うの」
「その男が部屋に泊まっていたなんてどうしてわかるんだ」
神谷の声はたかぶっていた。
「わたしもそれをアンネリに訊いたわ。そうしたら、彼女こう言ったの。その男の人は上半身裸で髪がぐしゃぐしゃだったから、前の晩から泊まっていたに違いないって」
信じていた愛が音をたてて崩れていくのを神谷は感じた。


彼は背もたれに体を投げ出した。
暗黒の深い海に頭から沈んでいくかのように、全身の力が抜けていった。
無残な現実を拒もうとしてか、神谷は目を閉じ、何度も何度も首を横に振った。
しかし、それは事件を解決しようとする以上、避けて通れない現実であった。
タリアをアムステルダムへ行かせた男がいる。
その推理を組みたてた時からいつかは直面しなければならぬ現実であった。

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