第30章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


(第30章その1)


夜のとばりが降りたばかりだというのにその通りだけは早くもけばけばしいネオンに飾られ、ポン引きまがいの男たちがしきりに客引きをやっていた。
グンターフォルスト通り、別名、エロス通りとあだ名されているいかがわしい通りだ。
セックス能力の失くなった年寄りと日本人や中国人などの観光客を相手にハードポルノを上映するリッツ映画館。
ライブ・ショー専門のヌードスタジオ。
トナカイの角を粉末にして強精剤として売っているポルノショップなどなど。


「アドルフ・グレーペというドイツ人を知らないか。こんな顔の男だ。この写真は十年前のものだが、見かけなかったか」
「知らねえな。このあたりじゃ見かけねえ顔だ」
通りの端から端まで、アドルフ・グレーペの写真を手に、彼の消息を知っている者がいないかと聞いて回ったが、結果は空しかった。
グンターフォルスト通りから足を遠去け、神谷はエヴァ百貨店の前を通り、T・セントラル駅方面へと向った。
途中、コンサートホール前の階段下で、恋人を待っているのか、寒そうにダッフルコートの襟をたて、足踏みをしている数人の若者にアドルフの写真を見せたりしたが、反応はなかった。


整然と建ち並ぶ建物の間を駆けめぐるように、ストックホルムの街中を、たえ間なく木枯らしが吹き抜けていく。
夏場は小麦色に焼けた肌を大胆に露出していた若い娘たちも、今はフード付きのコートをしっかりと着込み、すき通るように白い肌をおおい隠している。
濃紺の制服・制帽を身につけ、シェパードを連れた二人組の警官の立っている駅前を通り過ぎると、神谷の足はロドマンス通りを越え、気がつくとヘルシンキ行きの船が停泊しているストックホルム南港にまで来ていた。
くすんだ草色のカバーでおおわれたモーターボートが十数隻、港のへりにかたまって杭につながれて浮かんでいる。
神谷はコートのポケットに両手をつっこみ、足元の岸壁にうち寄せる波しぶきを見るともなく見ていた。


五百メートル先の沖合いでは、たった今出港したばかりの客船が針路を南に向け、その姿を徐々に小さくしていた。
マルメかあるいはコペンハーゲン行きの定期船だろう。
岸壁には、神谷のほかに人の姿はない。
船を見送った人々は、冷たい風が吹き抜ける港を何分も前に立ち去っていた。
通りを隔てた背後のホテルから洩れてくるかすかな光が、神谷の足元まで達している。その光の中で、一枚の白鳥の羽が波間に揺れていた。


神谷は、二十分近くもの間、港の端にたたずみ、真っ暗な海を見つめていた。
ストックホルムでの何日かが空しく過ぎていった。
アドルフ・グレーペが働いていそうなT・セントラル駅近辺の食堂街や、外国人の溜まり場といわれる場所は隈なく歩いて回った。
しかし、それは徒労に終わった。
神谷は、六月十二日のアドルフの足跡にさえ近づいていない事実に、焦りを感じていた。
アドルフを知っているという者は何人かいた。
だが、彼らは口をそろえて、アドルフを最後に見たのは去年の六月頃だったと言う。
白鳥の羽根が揺れ動くさまを視界の端でぼんやりとながめながら、神谷はアドルフの足跡を辿れない理由を考え続けていた。


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