第30章その4

(第30章その4)



神谷は、体中から力がすーっと抜けていくのを感じた。
地の果てまでも追いつめる! その相手が、五ヵ月も前にあっけなく死んでいたなんて。
夢にも思い浮かばぬことだった。
だが、現実に、アドルフ・グレーペは死体となって目の前に安置されているのだ。
〈何ということだ。アドルフが死んでいるなんて! こんなことがあってたまるか! なぜだ。アドルフ! お前は死んじゃいけないんだ。口を割り、泥を吐かねばいけないんだ! どうしてだ! くそっ。どうして…〉
アドルフ・グレーペが死んだ今となっては、タリア殺害を問い詰めることは不可能だ。
しかし、神谷には十分すぎるほどわかっていた。


アドルフ・グレーペこそ、タリアをアントンをそしてヨハンセンを殺害した犯人であることが。
それだけに、アドルフの死が口惜しくてならなかった。
最後のどたん場で犯人は永久に手の届かぬ場所へ逃げてしまったのだ。
アドルフ・グレーペを一連の殺人事件の犯人として訴えたところで、九十九パーセント受け入れてもらえないだろう。
どの事件にも、アドルフを犯人とするだけの決め手がないのだ。
あるのは、クオピオ事件に関しての状況証拠―それも神谷の推理の中で組み立てられたものにすぎない。
第一、迷宮入りとなった事件でしかもすでに死亡した人間を犯人とみて、警察が本気で事件の再調査に乗り出すなど、そんなことあるわけがない。


〈奴が生きていさえすれば、タリア殺害のそしてアントン、ヨハンセン事件の犯人として追い込めたかも知れない。いや、俺は必ず奴を白状させたはずだ…。だめだ、何を言ってももう終わったんだ。今さらどうにもなりやしない。これ以上、事件を進めようがない〉
アドルフ・グレーペの死亡を確認した後の神谷は、無力感にうちのめされていた。
心の中は、重く沈うつな気持ちでいっぱいだった。
「必ずアドルフを探し出す」、その執念だけで支えてきた心のはりがいっきょに崩れてしまった。
「アドルフを捕まえ、タリア殺害の真相を吐かせてやる」、それが神谷の心の支えとなり、彼を行動させていたのだった。


警察での形式的な手続きを済ませると、神谷は、冷たい夜風の吹く通りへ出た。
これからどこへ行けばよいのか。
うつろな視線を路上に落とし、神谷は当てもなく歩き出した。
〈アドルフは死んだ。俺は、死人を追い求めて今まで駆けずり回っていたのか! もう、どうにもなりやしない〉
暗い夜道を歩いているうち、いつしか、波止場に来ていた。
これ以上、ストックホルムにいても仕方がない。


そう思い、腕の時計に目をやった。
午後八時。
ヘルシンキ行きの船が出るまでまだ三時間あったが、神谷は人気のない待合室へ入っていった。
一人、ベンチに腰かけ、神谷は両膝の間に頭をかかえこんだ。
〈タリア。お前の命を奪った犯人を、俺はとうとう見つけた。でも、奴は死んでいた…。奴を墓穴から引きずり出してでも俺は奴の犯した悪業を暴いてやりたい。
でも、もうどうにもなりやしないんだ。
奴が死んだ以上、事件を明るみに出すことは不可能に近い…。
それに、俺は疲れ切ってしまった。
身も心もへとへとだ。
タリア! わかってくれ、俺は精いっぱい、お前を殺した犯人を追い続けた…〉


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