第33章その1

(第33章その1)


翌日、神谷は旅行社へ行き、日本への帰国手続きを済ませた。
ロシア通過ビザ取得に日数を要すため、ヘルシンキを発つのは十日後の十一月二十五日となる。
モスクワ行きの汽車が出るのは午後一時だ。
帰国日が決まり、だんだんとその日が近づくにつれ、事件に対する関心は神谷の心から遠去かっていくかのように見えた。
タリアの件はあれ以上どうすることもできないんだ。
そう自分に思い込ますことで、神谷は事件を忘れようと努めていた。
が、一方では、事件を不完全な形でしか解明できなかった自分自身に幻滅とでもいおうかそれに近い思いが心の底でくすぶってもいた。


ヘルシンキを去るまでの短い日々を、神谷はこれといってすることもなく過ごした。
たいていは、駅前の『カイボ・グリル』や『コロンビア』に行き、昔なじみの日本人と思い出話を語り合っていた。
神谷がアキと再会したのはちょうどそんなころ、帰国まであと五日を余すのみとなった日のことだった。


神谷はいつものように『カイボ・グリル』の奥の方の席に座り、生ぬるくなってしまった紅茶をすすっていた。
窓を通して見える光景はいつもと同じだ。
通りをガタゴト走る市電、ライトを点灯して走る車、コートの襟をたて足早に歩き去る人々、そしてたえず降り続ける白い粉雪。
駅塔の大時計は午後四時を回っている。
二つ、三つ離れたテーブルでは、十六、七の娘たちが賑やかに話に興じている。
聞こうとしなくとも、彼女たちの声が神谷の耳に入ってくる。


「カティがテレビのコマーシャルに出るんだって。知ってる?」
「コンドームのコマーシャルだって」
「うふ、彼女、どこの使ってるの?」
「ねえ、セイヤが日本人と寝たの聞いた? 『モナポリ』で踊ってたら誘われたんだって。ミック・ジャガーばりの野性的な顔で、お尻がキュってしまってて、一晩で五回もいってしまったって」
「リトヴァから聞いたわ。彼女もセイヤと一緒にいたって言ってたわ。でも、リトヴァの話だと、その彼、色が浅黒くて長身で、ジェームス・ブラウンそっくりだったって言ってたわよ」
「キャー、セックス・マシーン。わたし、絶対、そっちがいい」
「リトヴァはどうだったの。寝たの?」
「セイヤだけだったみたい」


「よう」
低く太い声と同時に、誰かが神谷の肩に手を置いた。
神谷は体を反らし、後ろを振り向いた。
黒いサングラスにすりきれたジーンズ。
茶のブーツ。
アキだった。
「帰るんだって?」
タバコを掌の上でころがしながら、アキは神谷の方へ顎を突き出した。
「昨日だったか、日本人がここであんたの噂をしていたよ。その時、そんなことを言ってたようだぜ。で、あれは片がついたのか」
「ああ…」
神谷はあいまいに返事をし、
ストックホルムで犯人を見つけた。死体でね」
と吐き捨てるように言った。
「死体で?」


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