長編小説(推理小説)「タリア」第2章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。


長編小説(推理小説)「タリア」第2章その1


夜の十一時を過ぎるというのに、その通りだけは人けが絶えなかった。
カイザー運河沿いのその通りは俗に言う『飾り窓の女』のいる娼婦街であり、女を求めて男たちが集まっていた。
南北百メートル足らずの区間に十九の飾り窓があり、窓の数だけ女がいる。
黒いコルセットを身につけ窓の外に向って媚態を見せつける赤毛の女。薄物のネグリジェ姿で戸口に立ち、客にこびを売るブルネットの女。
すました横顔を通りに向け、欲しいなら勝手に入ってこいとでも言いたげに週刊誌を手にしているブロンドの女、女、女。
そして、つかの間の快楽を求める男たち。
ある者は気にいった女を見つけ部屋の中に消え、ある者は上気した顔に照れ隠しのうす笑いを浮かべ部屋から出てくるといった具合に。

ハインツ・シュテッセルもその中の一人だった。
色情狂的なところのある色黒で豊満な女との行為を終え、彼は『飾り窓』を出た。通りを行きかう男たちの目が自分を冷やかしているように思え、きまり悪そうに肩を縮め、足を早めた。
通りのはずれまでくると、彼は立ち止まり、後ろを振り返った。
『飾り窓』の前を行きかう男たちの姿が目に入る。小一時間前に、この通りにやって来た時と少しも変わっていない。
シュテッセルはにやっと笑うと、運河べりの方へ向かって、通りを斜めに横切った。
街燈の光がわずかにしか届かない場所まで行き、おもむろにズボンのチャックを降ろした。
小水が水面を勢いよく叩くリズミカルな音を耳にしながら、ふっと運河の中ほどに目をやった。何か白っぽいものが浮いているのが目に入ったからだった。
最初、それは板きれかベッドマットの一部かと思えた。
自転車のタイヤだとかオレンジの腐った皮などに混じって、それらが運河に漂っていることがよくあるからだった。
だが、シュテッセルの今見ている物はこれまでに見慣れた物とは様子が違っていた。
岸から四、五メートル離れたあたりを漂っているそれをもっとよく見ようと、シュテッセルは身をのり出した。
薄暗がりに目をこらし、じっと見つめていると次第に輪郭がはっきりし始め、光の届く所にまで流されてきた時、その正体がわかった。
思わず、あっと声を上げ、後ろへとびのいた。
娼婦との快楽の余韻などいっぺんに消え失せ、気味悪さに足ががくがく震え出した。
シュテッセルは死体から顔をそむけ、娼婦たちのいるにぎやかな場所へと一目散に逃げ帰っていった。

『二月からわずか四ヵ月半の間に五人もの犠牲者を出した一連の殺人事件はいまだ解決を見るにいたっていませんが、今夜はアムステルダム市民はおろかオランダ全国民を震撼させているこの連続殺人事件について、犯罪心理学者のポール・ヴァン・バーゼン博士をスタジオにお呼びし、事件の経緯、犯人像などを語っていただきましょう…』
その年の六月十三日午後九時のオランダ国営テレビ放送局は、そんな特集番組を流していた。
『まず、事件の特徴ですが、今さら述べるまでもなく被害者は十八歳から三十二歳までの女性であり、レイプされた後に殺されています。
最初の被害者は二月五日に、二人目が一ヵ月後の三月八日に、そしてつい五日前に殺害されたキティ・ションク嬢にいたる五人の遺体はことごとく運河で発見されています……』
彼は肘かけの付いたソファーから身を起こし、毛深い骨太の腕をのばしてテレビのスイッチを切った。
犯罪学者の説明を聞かずとも、事件の詳細は知り尽くしていた。
そして、五人の犠牲者を出して今なお犯人を捕えられないでいる責任は、この事件の捜査を指揮している自分にあることも承知していた。
ブラウン管から画像が消えると、首を何度も横に振って浅くふっとため息をつき、ソファーに身を沈めた。両手の指を組み合わせ、それを閉じたまぶたの上に持っていった。
キティ・ションクが殺されて五日になるが、連日連夜にわたる捜査でこの三日間ろくに睡眠をとっておらず、そのため目のふちに疲労の隈ができてしまっていた。
今夜にしても、家に帰ってきたのはほんの一時間前で、幼い娘と二言三言、言葉をかわした後、シャワーを浴び、テレビのニュース番組を見ているところだった。
彼は組んだ指を解き、脇の小卓からキャメルと安物の金メッキで装飾されたライターを取った。
フィルターなしのタバコを口にくわえ、火をつける。煙と一緒に深々と息を吸いこみ、椅子の背に頭をもたせた。
まっ黒にすすけているはずの肺の奥に紫煙が届くと、疲れがいっきょに吹き出したのか、数分後には寝息が彼の口からもれ始めた。
しかし、それは長くは続かなかった。
隣の寝室で電話の呼び出し音がなったためだった。
彼は浅い眠りの中で電話の鳴る音を聞き、妻のアルレットが電話に出ている声を夢うつつの状態で聞いていた。
やがて、足音がすぐ近くで聞こえ、肩を軽く揺り動かされていた。
彼は目をしばたたかせ、目の前に立っている小柄なアルレットを見上げた。妻の顔に浮かんでいる心配気な表情から、電話を掛けてきた相手が想像できた。
署からの電話だった。
「バンヘルデンだ。何があったんだ」
彼は受話器をつかむと、相手の声も確かめずに、いきなり問うた。
もしや、また新たな犠牲者が出たのでは、そんな懸念が心をよぎったためだった。
「警部! たった今、殺人の報告がありました。殺されたのは女性で、カイザー運河で死体が発見されました」
「…」
不安が的中し、受話器を握る警部の手に汗が噴き出した。
「クライネ刑事と鑑識の連中が現場に行ってますが、死体は絞殺体とのことです」
「わかった。現場はどこだ」
フレデリックス広場の東側、娼婦街のすぐ近くです」
警部は受話器を置くと、横で不安な様子を見せているネグリジェ姿のアルレットを抱き寄せ、悲しげな低い声で言った。
「また、犠牲者が出た。出かけてくる」

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