長編小説(推理小説)「タリア」第2章その2

長編小説(推理小説)「タリア」第2章その2


警部の名はガストン・バンヘルデン。
アムステルダム警察本部殺人課警部である。
家庭には七歳年下の妻と六歳になる娘がいて、彼自身この七月で四十三歳を迎える。
現場では鑑識の面々が死体を前にそれぞれの任務を遂行していた。
ガストン・バンヘルデン警部が到着した時、死体はすでに運河から引き上げられた後であったが、彼には死体を見ずともそれの浮いていた状況がわかる気がした。
警部はうす暗い運河に目をやった。
運河の両岸に並ぶ街灯に薄明るく照らされた水面。腐ったオレンジの皮、錆びた釘の突き出た板切れ、半分に切断された古タイヤなどが漂うゆるやかな流れ。
それらに混じって死体はうつ伏せになって浮いていたのだろう。
バンヘルデン警部はやりきれない気分で、運河から死体に視線を移した。
身長百七十センチ前後。髪は砂茶色、ただし、これは濡れているせいで、本来は金色であるかもしれない。額から右頬にかけて数本の毛髪が付着している。
まくれた茶色のブラウスからは、青紫色に変色し膨張した腹部がのぞいて見える。
ジッパーは外されているためスラックスは股のあたりまでずり下がり、下着をつけた腰部が露出している。下着は小さな赤い花模様のある白。右足にのみ残っている黒のエナメル靴。片方は運河の底に沈んでいるのだろうか。
大柄な体を前にかがめ死体を見下ろしているバンヘルデン警部のところへ、中背ではあるが胸板が厚く刈り込まれた芝生のような金髪頭の刑事が走りよってきた。
「死後二日は経っています」
入署五年目の若手ウィルヘルム・クライネ刑事だった。
「そんなとこだろう」
バンヘルデン警部は身動きもせず死体に視線を留めたままで言う。
「で、身元はわかったのか」
「まだです。被害者の所持品が発見されていませんので」
「明日、運河の底をさらってみることにしよう。何か見つかるだろう」
そう言って、彼は運河に眼をやろうとしたが、すぐに向きを変えた。
クライネ刑事の後方を指さし、
「ほら、おでましだぞ。嗅覚の鋭い連中だ」
数人の新聞記者が、遠まきにして見守る野次馬を押しのけ、バンヘルデン警部の方へ駆け寄ってきた。
警部は鑑識員に指示を飛ばし、死体を救急車に運び込ませた。これで、死体が記者連中の無遠慮なカメラにさらされる心配はない。
あとは彼らを適当にあしらえばよい。といっても、ただでは引き下らんだろうが。
「被害者は女性だそうですね」
「外見は二十歳過ぎだ」
「死因は絞殺ですか」
「解剖が済むまではなんともいえない」
「わかっているんでしょう。絞め殺されたってことが。もったいぶらずに教えてくださいよ」
「首を絞められた跡はあるが、それが死因かどうかは今の段階では答えられない」
「連続殺人の六番目の犠牲者ですね」
バンヘルデン警部は眉をしかめて、声の主を振り返った。
「その推理はどこから出たものか、君の意見を聞きたいね」
「違うとおっしゃる根拠でも?」
黒縁の眼鏡をかけ、よく動くぶ厚い唇の男が警部を逆手にとり、得意げに仲間に目くばせした。
「被害者の身元は割れているんですか」
「明日になったらわかる」
「どういう意味ですか」
「だから、明日運河をさらい、被害者の所持品を探すといってるのだが」
「犯人の目星はついているんですか」
「捜査中だ」
「捜査は進展しているんですか。犯人の足取りはつかめているのですか。これで六人目ですよ。警部」
「六人目かどうかはまだわからん。あとはノーコメント」
バンヘルデン警部は記者連中を振り切り、クライネ刑事の待つ警察車に乗り込むなり、怒りを込めた口調で、
「これで六人目だな」
「警部もやはり」
クライネ刑事は、バンヘルデン警部の苦々しげに唇をゆがませた横顔を見ていった。
「扼殺だろう。首にくっきりと指の跡が残っていた」
二人ともに考えていることは同じだった。
五日前に五人目の犠牲者を出したばかりなのに、またしても新たな犠牲者を出してしまった。
犯人にこれ以上殺人をくり返させないと公言した矢先にこのざまだ。
犯人の手掛かりさえもつかめていないいらだたしさと自責の念が、彼らの心に重くのしかかっていた。
「殺された女性はオランダ人ではないな。スラックスの銘にフィンランド製と記されていた。恐らくフィンランド人だろう」


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