長編小説(推理小説)「タリア」第2章その4

長編小説(推理小説)「タリア」第2章その4


犯人を探すに必要な手がかりは、乏しかった。
市販の赤い蝶の模様がプリントされた紫色のネクタイが一本、そして、どの家庭にも見うけられる果物ナイフ。
この二つが、事件を追う側の持ち駒であった。
婦女暴行致死。
あらゆる犯罪のなかで、通り魔的殺人とこの婦女暴行殺害ほど動機の観点から犯人を指摘するに難解なものはない。犯人にとって、犠牲者は誰でもよいのであるから。
それでも、捜査は懸命になされていた。
ネクタイ及びナイフの出所はすぐに判明した。
ネクタイはロッテルダムに工場のあるメーカーが製造したもので、作られた本数は五十本。売り先はアムステルダム市内のデパート『ピーアンド・シー』に半数、残りはロッテルダム市内のデパート三店にであった。
六月八日までに十二本が売却されていた。当然、販売員の証言が期待されたが、買った客の顔を覚えている者はいなかった。
ナイフの製造元はアムステルダム郊外の工場であったが、これはオランダ中のどの店にも並んでいるごくありふれたもので、そこから犯人を探って行くことは不可能に近かった。
死体発見現場付近一帯の聞き込みは、幾度となくくり返された。
ニーウェンダム地区の運河沿いの住民のある者などは四ヵ月の間に十四回も刑事に尋ねられたほどであった。
聞き込みは、主として、車に乗っていた怪しい人物を探し出すのが目的であった。
その結果、かなりの情報はえられたが、裏付けをとると、一つとして事件に関連するものはなかった。情報の大半は、車中でいかがわしい行為を行っているのを目撃したという程度のものであった。
変質者や性犯罪者リストに名をつらねている連中は、否応なしに警察での取り調べを受けねばならなかった。
アムステルダムのみならずオランダ中の変質者、性犯罪者はかたっぱしから調べられた。四ヵ月間に、実に八千人もの被疑者が警察に調べられたのだった。
だが、彼らの中に犯人を見い出すことはできず、依然として捜査は難航していた。
そして、六月十三日、またしても新たな犠牲者が出たのだ。

解剖結果が届いた。
バンヘルデン警部の推察どおり扼殺であった。
胃の残留物には肉類などがあり、被害者は食後二時間以内に殺害されたものと推定される。死亡推定時刻から死体発見時までに、およそ四十八時間経過している。被害者の体内に犯人の精液は残留せず。
事件の翌朝、運河底からはまず左の黒のエナメル靴が、続いて被害者の所持品であろうバッグが発見された。
紺色の牛皮製ショルダーバッグの中からは、女性の持ち物の典型的な物品が出て来た。
ヘアーブラシ、口紅、ハンカチ二枚、コンパクト、ティッシュなどなど。総数四十六点。
ビニール製の財布には、フィンランド通貨で九百マルカ(邦貨に換算すると約八万円)入っているだけで、ギルダーや他の通貨は皆無。
バッグの内袋には、被害者のものと断定できるフィンランド政府発行のパスポートが収められていた。
記述内容は次のとおりである。
氏名、タリア・コッコネン。
国籍、フィンランド
生年月日、一九五五年四月十四日。
年齢、二十三歳。
性別、女性。
身長、百七十センチ。
毛髪の色、ブロンド。
眼の色、青緑色。
連絡場所、ロウタサリー19-A-2、ヘルシンキフィンランド
パスポートに貼付されている写真の主は、六月十三日、運河で発見された女性と同一人物であった。
タリア・コッコネンのパスポートから、彼女が六月十一日にヘルシンキ空港よりフィンランドを出国し、同日オランダに入国している事実が認められた。
入国地点はアムステルダム郊外のスキポール空港である事実も、パスポートに押された入国印からつかめた。
タリア・コッコネンのオランダ入国後の足どりは身元判明後ただちに追跡され、彼女がヘルシンキ発十四時十分のフィン航空AY677便でフランクフルトへ行き、そこでルフトハンザ航空十六時二十五分発アムステルダム行きLH766便に乗り換えた事実が判明した。同便のスキポール空港到着時刻は十七時四十分。税関で三十分ついやしたと仮定して、空港を去ったのは十八時十分前後となる。
機内では肉類などの食事は提供されていない。
すなわち、彼女は税関を終えた後に夕食をすませ、その二時間後に殺害されたことになる。死亡推定時刻は六月十一日午後九時半前後であるから、空港を去った後三時間半以内に殺害されたと推定できる。
捜査はタリア・コッコネンを見かけた目撃者をえることに重点がおかれたが、フィン航空のスチュワーデスが機内で彼女を見かけた以外には他に目撃者はいなかった。
特別捜査班の中に、タリア・コッコネンがオランダに入国した理由を探ろうなどとする者はいなかった。
六月は観光シーズンである。タリア・コッコネンはオランダに観光旅行にやって来た。そこで、不運にも連続殺人犯に遭遇し、その結果、事件の犠牲者となった。
誰もがそう考えて疑わなかった。

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