長編小説(推理小説)「タリア」第3章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。


長編小説(推理小説)「タリア」第3章その1


蒸し暑い夜だった。
新宿西口広場でバスを降りた神谷(かみや)は、歌舞伎町へと足を向けた。
人混みの中を歩いていると、一分もしないうちに汗が腋の下を濡らす。連日の熱帯夜にもかかわらず、夜の新宿はあいかわらずの人混みだ。
前を歩く三人連れの少女たちのむき出しの肩に目をとめながら、神谷はこれからどこへ行こうかとまよった。
ロック喫茶へ行き、一人でアル・クーパーを聴くか。
それとも、『グラスホッパー』で先輩が掘り出したというバンドとやらを聴いてみるか。チーフが、今度のバンドは抜群だぞなんて言ってたっけ。
神谷は思い出したように微笑を浮かべた。
が、すぐにその微笑をひっこめ、真剣な表情に戻った。この一ヵ月近く、頭から離れない悩みが、彼の顔を曇らせた。
「なぜ、返事をくれないんだ」
神谷は口の中でつぶやき、悩みを振り払おうとして首を振った。
ここへ来て好きなブルースを聴いていればせめて一晩くらいは悩みを忘れさせてくれるだろう、そう思って来たのだが、どうやらそれは間違っていたみたいだった。
「まあ、いいや。ここまで来たんだ。とにかく今夜はロックでもブルースでも聴いてるさ」
神谷は肩をすぼめ、地下へ通じる階段を降りていった。


グラスホッパー』を一口で説明すれば、生バンドを置いたコンパとでも言えようか。十二人掛けの楕円形のカウンターが五つに、四人掛けのボックス席が七つある。
店の奥にステージが設けられ、その前には四メートル四方のダンスフロアがある。いつ来ても客の入りは良く、今夜も九割方、席は埋まっていた。
チーフはステージに近い一番奥のカウンターでシェーカーを振っている。
神谷はそのカウンターへ行き、空いたストゥールに尻を降ろした。
新しく入って来た客が神谷だとわかると、チーフは口髭を生やした顔に笑みを浮かべ、神谷の前に立った。
「いつ来るかとずっと待ってたんだぞ。医学部の四年生ともなると実習やら解剖やらでお忙しいから無理もないか」
「そんなことないすよ。俺なんかさぼってばっかりで、去年も一年休学しているし。今年も留年の気配濃厚なんだから」
お手ふきで顔をぬぐいながら、神谷は答えた。


グラスホッパーのチーフは神谷の高校時代の先輩で、陸上部のキャプテンだったこともある。
長距離走のエースで、一万メートルを走ると神谷はいつも最後の一周で抜かされていた。それでも神谷も出場した阪神地区の駅伝大会では優勝したことがあった。チーフには負けるが神谷も高校生長距離ランナーとしては学校でチーフにつぐタイムを持っていた。
「お前は頭が良くて手先が器用だから、まあ、適当に授業を受けながら卒業するんじゃないのかな」
神谷のためにジンライムを作りながらチーフは言う。
「ほら、あれがこの間話したバンドだ」
チーフはグラスを神谷の前に置くと、ステージの方へ首を回して言った。
神谷もつられてステージに目をやった。
白人のベーシスト一人を含む四人編成のバンドだ。演奏している曲は『ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン』。長身で長髪のヴォーカルはジミー・ペイジふうの高音で、ヴァニラ・ファッジの曲を器用にこなしている。
「どうだ、なかなかのもんだろ。俺がこの耳で確かめて横須賀から連れて来た連中だ」
チーフはにやっと笑って得意気にうなずくのだった。
「ギャラはどれくらい払ってるの」
「ン万円ってとこかな」
チーフは新しく入って来た二人連れのOLのためのカクテルを作りながら歯を見せて笑った。
「来月だったっけ。結婚式を挙げるのは」
チーフの言葉に、神谷は不意を突かれたかのように身を固くし、あいまいにうなずいただけだった。
「で、もうそろそろ向こうへ行く頃じゃなかったのか」
「もう少ししてからね」
この話題を避けようとしてか、神谷はステージの方へ視線をそらした。


ちょうど何回目かの演奏が終了し、バンドがステージから引き上げていくところだった。それと入れ替わりに、スピーカーからはロッド・ステュアート、『ダ・ヤ・シンク・アイム・セクシー』が流れ出した。
チーフが客に呼ばれてオーダーに応じている間、神谷は手に持ったグラスを揺らし、氷の動く様をぼんやりと見つめていた。
ロッド・ステュアートが独特のしゃがれ声で歌っている。詩もメロディーも陽気なはずなのに、物悲しく心に響いてくる。
神谷はたまらなく孤独を感じた。
グラスを口にもっていき、あおるようにいっきに飲み干した。
「どうしたと言うんだ。何とか言ってくれ」
神谷の口から、つぶやきがもれた。グラスを乱暴に置き、神谷は両腕の中に頭を埋めた。
「何かあったのか。今夜のお前はちっともお前らしくないぞ」
チーフの声に、神谷は顔を上げた。
「話してみないか。一人でうじうじしていても悩みは解決しないぞ」
「うじうじなんかしてないすよ」
神谷はチーフの言葉に反撥するかのようにむっとして、言い返した。
「だったら、いつまでもそんなしょげた顔をするな」
「もういいすよ」
神谷はうんざりした顔でそう言い、立ち上がった。


伝票をつかみ、帰ろうとする神谷にチーフが声をかける。
「神谷、その怒りを俺にぶつけてお前の悩みを吐き出してみろ。俺にできることなら力になってやる」
一瞬迷ったが、神谷はもう一度同じ席に座り直した。
高校の先輩であり、多摩川べりを毎日一緒に走っていたこともある関口に、神谷は悩みを打ち明ける気になった。
大学受験で学部選びに迷っていた時、大学を中退してヨーロッパへ放浪の旅に出たいと言った時、そんな時いつも関口は親身になって神谷の話を聞いてくれた。ロックとブルースとジャズのアルバムを五百枚集めたと言う関口の自慢の部屋で、レコードをかけながら神谷に人生のアドバイスをしてくれた。

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