長編小説(推理小説)「タリア」第3章その2

長編小説(推理小説)「タリア」第3章その2


神谷は氷水を口にふくみ、関口の目を真正面から見つめた。
関口は神谷を励ますかのように力強く顎を引いた。
いつの間にか、ギルバート・オサリヴァン、『アローン・アゲイン』が流れていた。やるせないほどの哀愁と孤独に満ちた詩。
僕はたとえ不幸せではなくても
今すぐに近くの塔へ行き
頂上まで登り
身を投げることも、平気でできると思う
くじけている人に はっきりと見せるため
助けもなしに佇む
教会で 僕の様子を見ながら(第3章その2)
人びとが話していた
“神よ、彼女は息子を育てあげた。
あれはしっかりしている もう大丈夫
だから私たちは帰りましょ“
自分でしたことだが
また一人ぼっちになった、ごく自然に
「彼女、何を考てるのか分らないんすよ。六月になってから一度も手紙が来やしない。こっちは、その間十通も出してどうしたのか聞いているのに全然返事が返ってこないんですよ。だから、俺…」
神谷は唇をかみしめ、寂しそうな顔で首を横に振った。
「彼女が結婚を止そうとしているんじゃないかって、そう思ってるんだな」
「そうでなけりゃ、二ヵ月近くも手紙を寄こさないなんて考えられない。以前は十日に一度は手紙を書いて寄こしてたのに。それが、この二ヵ月、一通の手紙も受け取っていない。何かあるなら、そう言ってくれれば俺も納得がいく。でも、黙っていたら、何もわかりゃしない」
「最後に来た手紙には何て書いてあったんだ」
関口はカウンターのへりに両手をつき、身を前に乗り出した。
他の客の世話は、もう一人のバーテンダーに任せきりだった。
「俺が来るのを待ちわびる。そんなふうなことが書いてあった。それっきり、連絡がないんです」
「病気になったとか事故にあったとか、そのような可能性は考えてみたのか」
「そうだとしても、手紙ぐらいは書けるでしょう。もう二ヵ月になるんですよ。いったい、どうしたというんだ」
神谷はこぶしを作りカウンターに押しつけた。
ギルバート・オサリヴァンが最後の一小節をリフレインしていた。
アローン アゲイン ナチュラリー
アローン アゲイン ナチュラリー

神谷は淡くかすかにブルーの色の付いた眼鏡の奥のくっきりした二重まぶたの目を閉じ、皮肉な巡り合わせだとでもいいたげに唇の端をゆがませた。
あの日、彼女に初めて出会った時もオサリヴァンの『アローン・アゲイン』が流れていた。
あれはたしか『モンディー』でだった。
俺はすばらしく清楚できれいな娘を見つけ、踊りを申し込んだのだった。
その娘は俺の顔をじっと見つめ、優しくほほえんでくれた。
どこか憂いを帯びた彼女の瞳は、『ゴッド・ファーザー』で見たダイアン・キートンのそれのようだった。
俺たちは何曲か踊り、俺は彼女の手をとり席に戻り、彼女の椅子を引いてやった。
別れ際に俺は言った。
もう一度会いたいって。
すると彼女は、あの優しい微笑を、丸くて小さな形のいい唇に浮かべこう言った。
来週の今日でよければぜひ会いたいって。
どこで?
シベリウス公園はどう?
一度行ったことがある。
じゃ、そこのパイプオルガンの彫刻の前で五時に。
オーケー、そこで待ってる。
そして、俺は彼女の席を数歩離れてから振り返ったんだ。
彼女も俺の方を見ていてくれたっけ。
俺は二、三歩戻って彼女にこう聞いた。君の名前は?
「タリア」

神谷は、自身の口からふともれた言葉に気づき眼を開けた。
関口がじっと神谷を見ていた。
「向こうに誰かお前の知り合いはいないのか。もしいれば、そいつに彼女のことを問い合わせてみればどうかな。結果がどうであれ、お前にはそれで納得がいくはずだ」
関口の言葉を咀嚼するかのように、神谷は少し間を置いてから、
「頼まれてくれそうな友人が一人います。そいつに彼女の様子を知らせてもらいます」
「それがいい。ここであれやこれや考えていてもどうしようもない。
よし、そうと決まったら、せっかく来たんだ、うちのバンドを聞いてやってくれ。ブルースをやらせりゃ、新宿ではダントツだ。もうすぐ最後のステージが始まる頃だ。何かリクエストはあるか」
サマータイムなんかはどう」
「それはお前の十八番だろ」
関口は口髭を右の人差し指でなでてからにやっと笑った。神谷の奴、どうやら少しは元気が出てきたみたいだ。
「それじゃ、ミー・アンド・ボビー・マギーは?」
「ジャニスか」
「あのヴォーカルならちょうどキーが合うんじゃない」
「オーケイ。ちょっと待っててくれ」
関口はそう言ってカウンターを脱け、ステージの裏へ回った。

それから間もなく、先程の四人組のバンドがステージに出て来た。軽く音合わせをした後、イントロ抜きでいきなりヴォーカルがシャウトした。
You say that it’s over baby
You say that it’s over now
ヴォーカルがどうだと言わんばかりに神谷の方へ顔を向けた。
続いて、リード・ギターがせつなく泣くようにすべり込んでくる。
ドラムが歯切れよく音を刻む。
神谷のリクエストした『ミー・アンド・ボビー・マギー』を蹴り、同じジャニス・ジョプリンの『ムーヴ・オーバー』を歌うだけあって、先ほどの『ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン』なんかよりずっといい。
それに彼らなりにオリジナリティーをつけて演奏しているのもいい。なるほど、新宿でグンバツだというのはうなずける。
『ムーヴ・オーバー』の後、ジャニス・ジョブリンの曲を三曲やり、最後に、アメリカ国歌をジミー・ヘンドリックスの真似ではなく彼ら流にロックにアレンジした曲を演奏し、舞台の裏へと消えていった。
蛍の光』が流れ出すと店内は急に暗くなり、残っていた客が相ついで出口へ向かった。
関口がホールを歩いて、神谷の方へやって来た。
神谷の肩に手をかけ、弟を見守るような表情で、
「結果がどうであれ、気を落とすな。結果がわかったらすぐに、俺のところへ来い。必ずだぞ。今度来る時は、俺の歌を聞かせてやる」
グラスホッパー』を一歩外に出ると、熱気がどっと押し寄せてきた。
零時を過ぎ、人の数はかなり減ったが、ビルとビルとのすき間に漂っている熱気は二時間前と少しも変わっていなかった。
神谷は人けを避けて、裏通りを花園町の方へと足を向けた。そこから神谷の住んでいるアパートまで歩いて十五、六分の距離だった。

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