長編推理小説「タリア」第4章その2

長編推理小説「タリア」第4章その2


タリアの死を知らされてからの数日間、神谷は気の抜けたような毎日を送った。
何もする気にはなれなかった。
心の中にぽっかりと穴があき、魂がどこかへ飛んで行ってしまったような感じだった。だが、悲しみの涙が出つくすと、それに替って憎悪が次第に心の中に拡がり始めた。
神谷は、愛する恋人の生命を奪い取った犯人を憎んだ。
憎悪を深めることで悲しみが薄らぐかのように、あるいは恋人が戻ってくるかのように、神谷は犯人を憎んだ。
神谷は八月末にタリア・コッコネンとの結婚式を挙げ、その後は日本で二人一緒に暮らす予定だった。大学での講義をまじめに受け無事卒業したら病院でのインターン生活。それを終えれば父親の希望に沿って、父親が院長を務める病院で勤務する…。
それが、あっけなく壊されてしまった。
恋人がオランダへ行った。たったそれだけのことで、未来が壊されてしまった。
〈なぜ、タリアを殺したんだ! 誰がそんなことをしたんだ!〉
そんな思いが何日か続いた後、神谷の心に本来の冷静な感情が甦ってきた。
それとともに、ある疑問が湖に拡がる小波のように胸の中で拡がり始めていた。
〈タリアがアムステルダムへ行ったのはどうしてなんだ!?〉
神谷は八月初旬にヘルシンキへ行き、その一ヵ月後にはタリアと結婚するはずだった。
結婚式を終えた後、二人で汽車を使ってスカンジナヴィアを下り、オランダ、フランス等を旅行して回りアテネから飛行機で日本へ飛ぶ予定だった。タリアにしてみれば、何も六月の時点でオランダへ行かずとも、三ヵ月もすれば神谷と二人で目的の場所へ行けたのだ。ところがタリアはそうはしなかった。
なぜ、三ヵ月を待てなかったのか。
神谷はそこに疑問を抱いた。
タリアがオランダへ行ったのは観光のためなんかじゃない。
それ以外の何かの理由があったとしか考えられない。
タリアから届いた最後の手紙には、彼女が三ヵ月後のヨーロッパ旅行をいっ時も待てず、一人でオランダへ行くなどといった言葉はどこにも見当たらなかった。

『親愛なるマサト
わたしは今、待ち遠しくてたまりません。あなたが一日も早くヘルシンキへ来てくれることを、毎日毎日指折り数えて待っています。
マサト。わたしの一番大切な人。愛してます。
あと二ヵ月も待つなんて気が狂いそう。去年も一昨年もあなたと二人で過ごした夏。それなのに今年は一人でいなくちゃならないなんて。
わたしの大好きな季節をあなたと楽しめないなんて。
何て寂しい夏なんでしょう。
ごめんなさい。あなたが来れないわけを知っているのにこんなこと言ったりして。
わたしのマサト。今、何してるかわかって?
地図を見ているの。ギリシャってきっと素晴らしい所でしょうね。青い空に輝く太陽。あなたと一緒に早く行きたい。
待ってます。
五月三十日。 タリア』

文面からはタリアが一人でオランダへ行こうとする意図はまったく見られない。
しかし、現実に彼女はそこへ行っている。
五月三十日の時点では、彼女はオランダ行きを考えていない。手紙を見るかぎりでは、そのように判断して問題ないだろう。
それならば、彼女がオランダ行きを思いたった日を、かりに五月三十日も計算に入れるとして、死亡前日の六月十日までの十二日間のいずれかの日と考えることができる。
この十二日間に、彼女の心にオランダ行きを促す何かが起きたと考えられる。
タリアを突発的にオランダへ行かせた何かの理由があるはずだ。
それは単なる旅行のためにではなく、もっと別の理由によってだ。
神谷は、タリアがオランダへ行った動機を考えあぐねた。いくら頭をひねってみても、その動機を推し測ることはできなかった。
しかし、ひとつだけもしやと思えることがあった。
タリアがオランダへ行ったのは彼女の意志によってではなく、誰かが彼女をそこへ行かせたのではないだろうか。
誰かがタリアをオランダへ行かせた?
もしそうだとすれば何のために…。

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