長編推理小説「タリア」第5章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。


長編推理小説「タリア」第5章その1


八月十三日、神谷はアムステルダムへ向った。
タリアが亡くなった今となっては、アムステルダムへ行ってもどうにもなるものではない。しかし、神谷は胸の中に澱のように沈殿している疑問をどうしても解かずにはいられなかった。
タリアの不可解な行動の謎を解かずにはいられなかった。
そしてその鍵はアムステルダムにあると思えた。
乗客の大半を占める日本人団体、それに幾組かのアメリカ人らしき老夫婦。彼らに混じって、神谷は窓際の席についていた。
離陸後数時間はにぎやかだった機内も、今はひっそりと寝静まっている。
空は暗青色、雲はなし。
神谷は、ブラインドをわずかに上げ、窓に眼をやった。
暗い窓の向こうには天空に北斗七星が輝き、そしてガラス窓には怒りと悲しみに疲れた日本人の顔が映っていた。
軽くウエーブしたやや長めの髪、そして細面の顔。淡いブルーの色の入った眼鏡の奥の理知的な二重まぶたの眼、筋の通った鼻、薄く小さな唇。
アムステルダムへ数時間の距離へ近づいたころ、神谷はようやく眠りについた。

神谷正人、二十五歳。
東京の私立大学医学部に籍を置いて五年と四ヵ月になる。
五年余りの学生生活のうち二年間をヨーロッパでの放浪の旅に費やしていた。
神谷が初めてフィンランドへ行ったのは三回生を終えたばかりの春だった。
その年、四月中旬に横浜を出航し、ナホトカ、モスクワを経由して七日目に憧れのヘルシンキへ着く。俗に言う、ナホトカ航路で神谷はヘルシンキへ辿り着いたのだった。
それから五ヵ月の間、神谷はリュックを背に西はポルトガルから南はモロッコまでヨーロッパ中をヒッチハイクで回り歩いた。
九月になって再びヘルシンキへ戻って来た時、神谷のポケットには十ドル札一枚しか残っていなかった。持っていた金はほとんど使い果たしてしまっていた。
おまけに、日本へ帰る切符などありはしなかった。
片道切符と千五百ドル。
それが、横浜を出る時神谷の持っていた全財産だった。
最後の十ドル札を使いきった日、神谷はヘルシンキ駅前のレストランで働きだした。皿洗いだった。
ヘルシンキで暮らし、日が経つにつれ、神谷はその街がたまらなく好きになっていった。
九月下旬の、ちょうど木枯らしが吹き始めるころ、神谷はヘルシンキに来て初めてディスコへ遊びに行った。
『モンディー』という名のディスコだった。
そこでタリアと知り合った。

「僕と踊ってもらえる?」
窓際のテーブルに一人で座ってダンスフロアを眺めている娘に神谷は声をかけた。
「ええ、喜んで」
嬉しそうにそう言うと、彼女は微笑を浮かべて立ち上がった。
背丈はほとんど神谷と変わらなかった。
「日本から来たの?」
「そうだよ。君はヘルシンキの人?」
「そうよ。わたし、タリア。あなたは?」
「マサト。カミヤ・マサト」
踊りながら神谷はじっとタリアを見つめていた。
神秘的な光景だった。
暗い窓の外には満月が浮かび、月光がタリアの顔を青白く照らしていた。
白く光る金髪、金色の長いまつげ、まっすぐ神谷を見つめる憂いを秘めた緑色の瞳、高くも低くもない鼻、淡いルージュを塗った形のよい小さな唇、すっきりした細い首。
その時彼女と交わした会話を神谷は今でも覚えていた。
そして、一週間後、神谷はタリアとデイトした。
シベリウス公園のパイプオルガンの彫刻の前で。
彼女はとっくりの黒いセーターの上にベージュ色の暖かそうなコートをはおり、神谷を待っていた。
「早かったね」
神谷は、彫刻の前で佇ずんでいるタリアを見つけると小走りに駆け寄った。
彼女はあの優しい微笑を小さく形のいい唇に浮かべ、私も今来たばかりだからと言った。
「ありがとう」
神谷は、タリアの深い湖のような青緑色の澄んだ瞳を見つめた。彼女は何のことと言いたげに長い金色のまつ毛を上に向けた。
「君が僕に会ってくれたことだよ」
神谷がそう言うと、彼女は明るく笑って、こう言った。
シベリウスは知ってる?
「知ってる。フィンランドの生んだ偉大な作曲家だろ」
「私たちフィンランド人の英雄よ。この国を心から愛し、独立と自由のためにロシアと戦った偉大な英雄」
「彼の作った『フィンランディア』という曲を聞き、この国の人たちは祖国の独立のために立ち上がった」
タリアは顔をぱっと輝かせ、神谷を見た。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「何かの本で読んだのさ」
シベリウスの曲、聞いたことあるの?」
「二、三度ね。重くて陰うつとした感じで、ちょうどこの国そのものといった感じがする。そして、何と言うのか、愛国心に燃えた人たちのすさまじい力強さみたいなものが感じられるんだ」
「この国は好き?」
「すごく好きさ。一生ここで暮らしたいくらいだ」
「私も、この国が大好き。だって、私の生まれた国なんだもの」
タリアはゆっくりと歩き出した。
どちらからともなく腕を互いの腕にからませた。
互いに肩を寄せ合い、広い公園内を歩いた。彼女はフィンランドのことを話し、神谷はそれを聞き、神谷は東京の騒々しさを話し、彼女はそれを聞いた。

「『モンディー』に行ったのはあの時が初めてだったわ」
噴水のある池のほとりで足を止め、彼女は神谷の方に体を向けた。
「僕も、あの日が初めてだったんだ」
言いながら、神谷は胸がときめくのを感じた。
向かいあった彼女の瞳がじっと神谷を見つめていた。
神谷は彼女の肩に両手を置いた。
薄暮の中で見る彼女の肌はすき通るように白く美しかった。
神谷が彼女の肩を抱き寄せると、彼女は瞳を閉じた。唇が触れ合い、神谷は彼女をいっそう強く抱きしめた。長い口づけだった。
「あなたのこと、もっと知りたい」
彼女は神谷の肩に頬を寄せ、そう言った。
「どんなことを話せばいい」
「どんなことでもいいの。あなたのことなら何でも」
しばらく歩いてから急に立ち止まり、神谷はいきなり彼女を抱き上げた。
「一つ、僕は東京に住む医学生である。
一つ、僕は半年前に日本を出た風来坊で、帰国の予定は今のところなし。
一つ、僕はロックとブルースが好きで、中でも特に好きなのがアル・クーパージャニス・ジョプリンも好きだな。『サマータイム』。気が向けば自分でも歌うことがある。
一つ、僕はフィンランドが大好きで…」
神谷は彼女を降ろし、真剣なまなざしでタリアを見た。
「君を愛してしまいそうだ」
彼女は白い頬を桜色に染め、小さな声で言った。
「私も」
二人は向き合ったまま、しばらくの間口をきかなかった。
その沈黙を破ったのはタリアの方だった。
彼女は突然、瞳を輝かせ、明るい笑顔で言った。
「あなたの歌を聞かせて。ぜひ、聞きたい」
木枯らしが白樺の木々の間を吹き抜け、タリアの細く柔らかい髪を揺り動かした。
神谷は彼女の乱れた髪をそっと直してやった。
いつの間にかパイプオルガンの彫刻の前に戻ってきていた。周囲に人の姿は見えず、木の葉が風に揺れる音が聞こえるだけだった。
神谷はタリアをベンチに座らせ、自身も彼女の横に座った。
そして、低くハスキーな声で歌い始めた。
Summertime, time, time
Child, the living’s easy
Fish are jumping now
And the cotton load, cottons high
So so high. You Dad’s rich
And your Ma’s so good looking, Babe
She’s looking good now ……

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