長編小説(推理小説)「タリア」第5章その2

(第5章その2)


「アテンション・プリーズ。機はまもなくスキポール空港に到着致します…」
機内放送が神谷をここちよい眠りから現実へと引き戻した。
神谷は小窓をのぞいてみた。
レンガ色をした町並みが驚くほどはっきりと目に飛びこんできた。
アムステルダムに着いたのだ。
そう思うと、神谷はこれから戦地に赴こうとする兵士のように緊張のため身を固くした。
タリアはここへやってきた。
だが、何のために…。
〈教えてくれ、タリア。お前はなぜアムステルダムへ来たんだ。いったい、ここで何があったんだ!〉
神谷は眼下に拡がる光景に目をこらし、心の中で叫んだ。肘掛けをつかむ手に力が入り、気がつくと、全身が武者震いで震えていた。
機は滑走路に車輪を降ろし、やがて完全に停止した。
乗客がこぞって機を降りていき、機内にはほとんど乗客の姿が見えなくなってようやく神谷は窓から顔を話した。
空港からアムステルダム市内へはバスで十数分。
終点でバスを降りた。
朝の八時を少し回っていた。
神谷は足早に街を歩いた。
行き先はわかっている。
アムステルダム駅からまっすぐ南へ下るとシンゲル運河に出る。そこから南西の方角へ運河を二つ越えた所に目的の場所はある。


アムステルダム警察本部。
神谷がアムステルダムへ来た理由はそこにあった。
神谷は受付で用件を手短かに告げた。
待たされている間、多少の懸念はあった。果たして、訪問の目的が聞き入れられるであろうかと。
「三〇八号室にバンヘルデン警部を訪ねて下さい。彼ならあなたの役に立てるでしょう。そちらのエレベーターで三階で降りて右」
三〇八号室。神谷のノックに答えて、警部は一言どうぞと言った。
「カミヤと申します(マイ・ネイム・イズ・カミヤ)」
警部はうなずき、神谷に椅子をすすめた。
「タリア・コッコネン殺害の件でお聞きしたいことがあり、日本からやってきました」
「日本から(フロム・ジャパン)?」
使い慣れた英語で、警部は口を開いた。
「ええ、彼女は私の婚約者でした」
神谷の言葉に警部は表情を曇らせた。
警部はわずかに首を振り、椅子から立ち上がり、窓辺にいった。神谷の存在を忘れてしまったかのように窓の外に目をやったままでいたが、やがて静かに体を回した。
そして、強さと優しさとが入りまじった灰色の瞳で、神谷を見つめ、
「そうだったのですか。大変、お気の毒なことをしました」
沈んだ声でそう言ってから、警部は神谷の方へ二、三歩近寄った。
「事件について聞きたいことがあると言われたが、どういうことを話せばよろしいのかな?」
「彼女が殺されたときの状況を聞かせて下さい」
タリア・コッコネンが殺害され、すでに二ヵ月が過ぎていた。
その間、新たな事件は起きていなかった。
殺人犯は悪魔の手を休めているのだろうか。
事件を追う側にとってこの二ヵ月は犯人の足跡を辿り、追いつめるのに重大な意味をもつ二ヵ月であるはずだった。
しかし、恵みの二ヵ月も警察側にとっては何ら役には立たなかった。依然として犯人の目星はつかず、捜査はますます難航していくばかりであった。
バンヘルデン警部以下全員が焦りを感じていた。
「タリアが殺されたのは六月十一日ですね」
「正確には、午後九時半前後です」
「彼女がここへ、アムステルダムへ来たのも同じ十一日でしたね。実際には、何時に空港に着いたのですか」
神谷が新聞などから得た情報は、ごくわずかだった。
タリア・コッコネンは六月十一日ヘルシンキから飛行機でアムステルダムへ観光旅行に行き、同日に連続殺人犯の六番目の犠牲者となった。事件に対する知識はその程度のものでしかなかった。
「夕刻五時四十分にスキポール空港に到着。税関などで恐らく三十分ほど費やしたと考えられるため、空港を出たのは六時十分前後になるでしょう」
「六時十分。すると、犯人がタリアと接触したのはわずか三時間足らずの間のことですか」
「答えはノーです。正しくは二時間です」
神谷は、今まで心の底でくすぶっていた疑問がいっきょに胸に拡がっていくのを感じた。
それと同時に、新たな疑惑が心に湧き起こった。


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