長編推理小説「タリア」第5章その3

(第5章その3)


誰かがタリアをアムステルダムへ行かせた。
その人物がタリアとどういった関係にあったのか、なぜ彼女をアムステルダムへ行かせたのか、その疑問を解くために俺はアムステルダムへ来た。
彼女をアムステルダムへ行かせた人物と彼女を殺した犯人とを一つの線で結んで考えようなど思ってもいなかった。
「我々は、タリア・コッコネンが空港を去った後、どこかで食事をとったことまではつかんでいます」
「彼女は一人で食事をしたのでしょうか。それとも誰かと一緒だったのでは」
警部は首を振り、
「今申しあげたように、タリア・コッコネンはどこかで食事をした。しかし、その場所がどこなのかはわかっていません。
また、一人だったのか連れがいたのかもわかっていません。
我々にわかっているのは、彼女の胃の中に食後二時間ほど経過した肉類の断片が残っていたことのみです」
警部の説明を耳にしながら、神谷は頭の中で推理を展開させていた。

それはほんの数分前に初めて神谷の心に頭をもたげたものであったが、今、その推理は一つの方向に向かって急速に固まりつつあった。
タリアを殺したのは連続殺人犯ではない。
誰かが彼女をアムステルダムへ行かせた。
いや、彼女をアムステルダムへ呼び寄せた。
彼女の殺害を連続殺人犯の仕業と見せかけるために。
彼女はアムステルダムに着いて二時間もしないうちに犯人と遭遇している。彼女を殺したのが連続殺人犯であるなら、これはあまりにも偶然すぎる。
むしろ、タリアを呼び寄せた人物が彼女を殺したと考えた方が合点がいく。
だが、それなら彼女を殺した動機は何なんだ。
「タリアは連続殺人犯に殺されたと報道されていますが、それを裏づける根拠はあるのですか。彼女がアムステルダムへ来たのは今回が初めてだったんです。しかも、二時間もしないうちに連続殺人犯に出くわしたなんて偶然過ぎやしないでしょうか」
神谷はギラギラと瞳を輝かせ、自身が抱いている疑問を警部にぶつけた。
「偶然過ぎるとは考えられない。六人の被害者が犯人に出会った。
それらすべてが偶然だったんですからね。
タリア・コッコネンの場合のみ特別だったとは考えられないことです」
神谷の訴えかけるような鋭い視線から目をそらし、警部は机の傍へ大柄な体を寄せた。
「タリアがアムステルダムへ来たのは観光のためだったとされていますが、本当にそうだったのでしょうか」
「他に理由がありますか」
「殺されるためにアムステルダムへ来た」
「殺されるために?」
警部は太い眉を上げた。神谷の言った言葉の意味を理解しかねていた。
「もっとも、彼女は自分が殺されるとは想像もしていなかったでしょうが」
神谷はそう言って、椅子から身を起こした。
「彼女を殺したのは連続殺人犯ではないような気がするのです。
別に真犯人がいる。その人物が彼女をアムステルダムへ呼び寄せて、殺した。
しかも、連続殺人事件とまったく同じやり方で。警察は当然、タリア殺害に対しても連続殺人犯の仕業と考える。
それが、タリアを殺した犯人の狙いだったのではないでしょうか。彼女は観光のためにアムステルダムへ来たのではない」
そこで言葉を切り、神谷は窓辺へ近寄った。

秋の透明な陽光を浴びて、運河の表面はきらきら輝いている。
運河沿いの通りを何台もの自転車がじゅずつなぎになって走り去って行く。
「その理由は、彼女は六月十一日にアムステルダムへ来なくても九月には私と一緒に来ることになっていたからです。
三ヵ月後に旅行へ行くことになっている場所へどうして彼女一人で来なければならないのですか。旅行の下見にですか。とんでもない」
神谷は警部を振り返り、心の中の疑問をいっきに吐き出した。
タリアをアムステルダムへ呼び出した人物がいる。
そして、その人物が彼女を殺害した。それは神谷にとって、もはや単なる疑問ではなく確信に近いものになっていた。
神谷の指摘に、警部は明らかに動揺した様子だった。
何か言おうとして唇を動かしかけたが途中でやめてしまった。
神谷がタリアを殺したのは連続殺人犯ではないと確信しているのと同じほどに、警部はこの殺人は連続殺人犯の仕業だと信じていた。それを、被害者の恋人が現われ、いきなり真犯人がいるなどと言ったものだから面くらってしまったのだった。この日本人の言うことにも一理ある。しかし、あの殺しはどう見ても連続殺人犯の仕業としか思えない。いずれにしろ、犯人を捕えればはっきりすることなんだが。
「彼女が所持していた物を教えていただけますか」
警部は机の抽出から一冊のファイルを抜き出すと、ゆっくりと一点ずつ読みあげた。
コンパクト、ブラシ、ハンカチ、サングラス…。
四十六点の所持品をメモし終えた時には、神谷の推理は確固としたものになっていた。

タリアは旅行にはショルダーバッグは使わない。
いつも決まっていた。あの白いスーツケースを使うはずだ。
神谷は眉間をせばめ、机上のファイルに視線を注いだ。
「かばん類はショルダーバッグだけですか」
「それだけです」
神谷は小首を傾げ、つかの間、視線を宙に漂わせた。それから、
「彼女の殺害された場所へ行ってみたいのですが」
「残念ながら、殺害現場はまだ判明していません。死体の発見された場所なら教えられますけどね」
警部は言うと、壁に押しピンで貼られたアムステルダム市街図の一点を指さした。
地図には赤い×印が六箇所ついている。
その印が何を意味するのか、神谷は容易に推察できた。彼はタリアの死体が見つかった場所を記すと、手帳を閉じた。ほかに聞いておくべきことはなさそうだった。
警部は神谷に対して協力的だった。
神谷の質問には、警察でつかんでいる情報のほとんどを与えたほどであった。
それは、神谷が事件を追ってわざわざ日本からやって来たことに対する驚きのためか、あるいは神谷の指摘が警部の考えにどこか触れるものがあったためなのか、それともこれといって理由があったわけではなく、ただ警部の優しさがそうさせたのかも知れないが。
「当分はアムステルダムにおられるのですかな」
「いいえ。今夜のフライトでヘルシンキへ向かいます。私は私なりに、タリアを殺した真犯人を追うつもりです」
神谷は警部の差し出した右手をぎゅっと握り返して、きっぱり言った。
それに関して、警部は何も言わなかった。
彼は、神谷のヘルシンキでの連絡場所を尋ねるだけにとどめたのだった。

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