長編推理小説「タリア」第6章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「一番面白く読んだのはこの作品だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという小説(推理小説)です。


長編推理小説「タリア」第6章その1


八月十五日。
ヘルシンキは残り少なくなった短い夏の最後の時期であった。
ほんのひと月前まではあれほど強く頭上に照り輝いていた太陽なのに、今ではすっかり南へ下り、弱い光を申し訳程度に地上に投げかけているにすぎない。
空を流れる雲はボスニア湾から吹いてくる風にのって飛ぶように早く、あと半月もすれば空は灰色の雲におおわれてしまうであろう。
ヒエタニエミ海水浴場で泳ぐ人影は七月半ばで消え、今はかもめが海上を飛びかう光景が見られるのみであった。
正午きっかりに、神谷は安ホテルを出た。
どんよりした雲が陽光をさえぎり、肌寒さが感じられる。


神谷はマンネルハイム通りを横切り、ストックマンデパートの角を左に曲り、そのまま駅方面へ歩いた。ロウタサリー島行きのバスはヘルシンキ駅前から出ている。
神谷はバスに乗った。
ロウタサリー通り十九番地。ヘルシンキ市内とロウタサリー島を結ぶ長さ0.5キロの大橋を渡って三つ目の停留所がその場所だ。
神谷はバスを降り、目の前の茶色い三階建ての建物に足早に近づいた。一階はスーパーマーケットで二階以上が住居になっている。
入口の前で、神谷は立ち止まった。
入口脇の壁にはめ込まれた十二枚の標札を見た。
縦二列に並ぶ標札の左側、上から四番目。
二ヵ月前にはあったであろうタリア・コッコネンの名前は消えていた。代りに、黒いボールペンでメイユ・コッコネンと書かれた紙がはさまっている。
神谷はメイユ・コッコネンの標札脇のボタンを指で押した。
ドアは数秒後に内側に開かれ、彼は階段を駆け上がった。
階段を上りきって右へ三番目。
部屋のドアをノックする。
以前と同じように軽く二度。
なぜか息が弾み、胸がときめいた。
まるで、タリアがドアの向こう側で待っているかのような錯覚を覚えた。ドアに人が近づく気配がし、鍵の回る音がする。
神谷は、深く息を吸った。


ドアの陰から顔をのぞかせたのは神谷の見覚えのない女性だった。やや丸味をおびた親しみやすい顔に大きな目をした十八、九歳の女性だった。
神谷は、彼の顔をきょとんとした表情で見つめている娘がタリアの妹であることにすぐに気がついた。
タリアからもらった手紙に、四月から妹と一緒に暮らしていると書いてあった。妹といっても、タリアにとっては腹違いの妹であったが。

タリア・コッコネンは一九五五年、フィンランド中部の小さな町ミッケリに生まれ、母親は彼女が十六の時に病死している。
タリアは母親の死んだ後すぐにミッケリを出てヘルシンキで生活を始めていた。
メイユ・コッコネンはタリアより四歳年下で、ボスニア湾岸の小都市バーサで生まれた。
母親はスウェーデン系フィン人で、一昨年の暮れに病死している。
メイユがヘルシンキへ来たのは、彼女たち二人の父親であるアントン・コッコネンが今年の一月に交通事故で死亡してから三ヵ月後のことだった。姉のタリアを頼って、ヘルシンキへやって来たのだった。


メイユは、神谷が亡くなった姉の婚約者だと知ると彼を部屋へ招じ入れた。
部屋の中は以前と比べ、少しばかり趣が変わっていた。
一つしかなかったベッドは、頭を向かい合わせに白い壁に沿って二つ並んでいる。
通りに面した二重窓の脇にはスチール製本棚が立てられ、上から三段目までは本が整然とおさまっている。英文字の本も数冊混じっている。
その中の一冊に神谷は見覚えがあった。
タリアへのクリスマス・プレゼントに贈ったペイパーバックだった。
ミッドナイト・エクスプレス』。
二人で初めて見た映画の思い出に、その本をプレゼントしたのだった。
『ラヴ・ストーリー』でも見ようかと言う神谷に、タリアは社会的なテーマを扱った映画を見たいと言った。
本棚の最下段には小さなレコードプレーヤーが置かれている。そばには十数枚のレコードが入ったラックがある。
神谷は窓際のベッドに腰を下ろした。


正面の壁には、汚れた地球を図案化したポスターが貼られている。
一年前にタリアが貼ったポスターだった。
当時、夜間学校へ通っていた彼女が先生からもらったのだと言っていたのを、神谷は覚えている。地球環境をテーマにしたポスターで、“地球をきれいに”というスローガンを彼女はよく口にしていたものだった。
だからと言って彼女が政治活動に特別な関心を持っていたというのではない。タリアは彼女なりに社会を見つめていただけだ。フィンランドを愛し、シベリウスを愛し、恋を語り、そしてジャニス・ジョプリンにもちょっぴり耳を傾けたごく普通の娘だった。
メイユがコーヒーを運んでくると、部屋には甘酸っぱい香りが広がった。
ヘルシンキへはいつ来たの?」
メイユは両肘を円卓の上にのせ、頬づえをついて言った。
「昨夜着いたんだ。タリアのことで君に尋ねたいことがあって」
神谷は、メイユの青い大きな瞳に向かって言った。
「タリアが殺されたことで、君に何か心当りがないだろうかと思ったんだ」
「心当りって言われても、何もないわ。タリアはオランダへ行ったために連続殺人事件に巻き込まれたのよ。」
「そう、確かにタリアはアムステルダムへ行き、そのために殺されている。それはわかっている。君に聞きたいのはタリアがアムステルダムへ行った理由なんだ」
神谷は体を前に乗り出し、メイユの言葉を待った。


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