長編推理小説「タリア」第6章その3

長編推理小説「タリア」第6章その3


初めてデ−トしたシベリウス公園からの帰り道、タリアはレコード店の前で立ち止まり、神谷に一番好きな曲は何かと尋ねた。
神谷はアル・クーパーの曲を言った。
すると、彼女は店に入り、一枚のレコードを買った。
それが、『アイ・スタンド・アローン』だった。
「タリアと暮らしたのは二ヵ月程…わずかな間だったわ」
メイユが小さな声でぽつんと言った。
壁に背をもたせ、膝小僧を抱えた格好がひどく寂しそうだった。
「わたしがバーサからここへ来る前に彼女と会ったのは二回だけよ。五年前に一度と、それよりもずっと前に彼女が父と二人でバーサに来た時。
タリアのお母さんは父と正式に結婚していたけれど、私の母の場合は違ってた。母は誰とも結婚しなかったの。
タリアのお母さんが死んだ後、父は母に結婚を申し込んだの。
でも、母は断わったわ。タリアも私も大きくなりすぎていたのね」
メイユは神谷の足元をぼんやりと見やりながら、思い出話をするかのように喋った。

「このレコード、タリアがよく聴いていたわ。旅行から帰って来ると、決ってこの曲を聴くの。わたしが今座っている場所でこうやって」
メイユは膝小僧に額をくっつけた。
「もっとタリアと一緒に暮らしていたかった」
メイユはぽつんとつぶやいた。
神谷はメイユの瞳が潤んでいるのに気がついた。
あとひとことでも喋ったりしたら、悲しみが涙となって頬を伝いそうだった。
タリアの死は神谷にとってもメイユにとっても、何ものにも代えがたい大きな悲しみだった。
二人ともにタリアを愛していた。メイユは彼女をたった一人の肉親として、神谷は彼女をかけがえのない恋人として愛していた。
神谷はこみ上げてくる感情をどうにか抑えていた。悲しみに浸るのは事件を解決してからだ。

通りを走る車の音。橋下をくぐり抜けようとする小型船の汽笛。
もみの木々の間でさえずる鳥の声。
アル・クーパーのむせび泣く声。
何もかもが二人の耳には物悲しく聞こえた。数分間、彼らは口をきかなかった。それぞれの思いに浸っていた。
「さっきの話に戻るけれど、タリアが出かけた時、アムステルダムに限らずどこでもいい、誰かと一緒のような気配はなかっただろうか」
神谷は何事かに思い当たったように、突然そう言った。
「最初から一緒でなくてもいいんだ。目的地で誰かと出会っていた。そんな気配は感じられなかった?」
メイユはしばらく考えていたが、弱々しい声で、
「だめだわ。全然そんな感じじゃなかった。行ってから戻ってくるまでずっと一人だったみたい。でも…」
「なぜ、行先を教えなかったのか。タリアはそれを秘密にしていたとしか考えられない」

メイユの考えを代弁して、神谷は続けた。
「僕の知っている限り、タリアは旅行の行先を隠したりはしなかった。少なくとも、僕と一緒にいた去年までは。
メイユ、君がタリアと暮らし始めたのは四月からだったね。その前はどうだったんだろう。やはりどこかへ行ってたのだろうか」
「どちらとも言えないわ。私がここへ来る前からだったのかも知れないし、そうでないかも知れない」
「タリアが部屋を空けた回数、正確に覚えてる? アムステルダムへ行ったのも含めて」
「四回だったわ。…いったいどこへ行ってたのかしら」
アムステルダム以外はすべてフィンランド国内だった。それは間違いない。彼女のパスポートがそれを証明してくれる」
「パスポート?」

ヘルシンキへ来る前にアムステルダムの警察へ寄って来た。
パスポートはその時に見せてもらった。タリアはフィンランドのどこかへ出かけていた。それがどこかはわからないが、彼女がそこへ行ったのはアムステルダムへ行ったのと同じ動機からだったんじゃないかと思える。
彼女はアムステルダムへ行く際もどこへ行くか告げていない。
他の場合もそうだった。
ここに何かのつながりがあると思えるんだ。目的が単なる旅行でないことは確かだ」
神谷は漠然とした推理を組みたてていた。


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