長編推理小説「タリア」第16章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


長編推理小説「タリア」第16章その1


十月も三週目に入っていた。
鉛色の雲は日ごとに厚みを増し、頭上に低くたれこめている。
これからは何日も何十日もこのような日が続き、雲の切れ間に太陽が顔を出すことはめったにない。
ラップランドから下ってくる風は肌を刺すように冷たく、ヘルシンキは、今まさに冬を迎えようとしていた。


その日は、朝から降り始めた雨が午後になっても止まず、このまま一日中降り続きそうな気配だった。
マンネルハイム大通りを行きかう車は水しぶきをあげ、市電は屋根から雨水をしたたらせ、重い車両をきしませながら走っている。
マンネルハイム大通りとブレヴァルディン通りとが交差する地点で、神谷は足を止めた。
ブレヴァルディン通りを渡ったところにレンガ色をした三階建てのビルが見える。
フィンランド最大の新聞社、ヘルシンキ・サノマットがそこに本拠を構えているのだった。
神谷は建物の壁に身を寄せ、コートのポケットからアントンの交友録を取り出した。
そこにはアントンが付き合っていたであろう人物の名が、住所と電話番号それに職業をも添えて記されている。
神谷は、それらの人物のうちすでに二十八人に会って話を交えていたが、今までのところ成果はなかった。
神谷が今から訪ねようとしている相手はカレヴィ・シエキネン、サノマット社の記者であった。


神谷は中に入った。
ぶ厚い眼鏡をかけた五十がらみの婦人がにこやかに神谷に応対する。
数分後、アントンと同年輩らしき、薄くなった銀髪をオールバックにした小太り気味の男が、階段を降りて来た。
男は受付の婦人と短く言葉を交わすと、神谷の方へ歩みよった。
「シエキネンだが、何か私に?」
事務的なそっけない響きがした。
「お忙しいところを呼び出したりしてすみません。実は、アントン・コッコネン氏のことでぜひ伺いたい件があったものですから」
「アントンのことで?」
髪の毛と同じ銀色、というよりは灰色に近い色の眼が神谷とアントンの関係を問うている。


「私はタリアの、コッコネン氏の娘さんですが、婚約者だったんです」
「なるほど。君がアントンの話していた日本人だったのか…」
シエキネンはそうつぶやくと、心持ち頭を後ろに反らし、つかの間ではあったが眼を閉じた。何かを思い出そうとするかのように。
「…で、アントンのどういったことを?」
「コッコネン氏は亡くなる前にクオピオに行ったと思えるのですが、そのことで何か心当たりはないでしょうか」
「アントンがクオピオへ行った、か。なるほど、彼がそこへ行ったとして、それがどういうことになるのかな」
「いえ、コッコネン氏がクオピオへ行ったからどうしたと言うのではないんです。ただ、彼がクオピオへ行く用があったとして、それをあなたが知っていればと思ったのです」
シエキネンは首を横に振って知らないと言った。
「コッコネン氏は誰かクオピオに知り合いをもっていなかったでしょうか」
「知り合い、か。クオピオに知り合いがいたとは聞いてなかったがね」
神谷には、シエキネンとこれ以上話を続けてもアントン事故死の真相をつかむ手掛かりはえ得られないと思えた。
シエキネンに時間を割いてもらった礼を言い、サノマット社をでた。


雨はいくぶんか弱まっていた。
神谷は建物の壁に沿って、マンネルハイム大通りを北へ歩いた。
二十九人の中で誰一人としてアントンがクオピオへ行った、あるいはクオピオに彼の知り合いがいると証言する者はいなかった。
神谷はこれまでいく度となく味わった失望をかみしめた。
このまま、アントンの交友録に従って彼の知人を訪ねて回っても、何ら成果はないのでは…。
不安が神谷の心をいっそう重苦しくさせた。
神谷はストックマン百貨店を通り過ぎ、高級ブティックや宝石店が軒を並べるアレキサンドリア通りへと足を向けた。
その通りを二十メートルも歩くと、駅へ続く近道にでる。
そこまで来て、神谷は後ろから駆けてきたシエキネンに呼び止められた。
「間に合ってよかった。君の話を聞いて思い出したことがあってね。君が帰った後すぐに社を飛び出し、走って来たんだ。ふぅ、この雨でびしょ濡れだ」
シエキネンは肩で大きく息をしながら、すぐ目の前のレストランを指さした。


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