「タリア」第18章その4

(第18章その4)


「コッコネン氏に話した内容ですが、ひとつ思い出したことがあるんです。
警察には話していなかったことなので、私もすっかり忘れていましたが、実は、父は日記をつけていたんです。
父が死んだ後すぐに、部屋を片づけて荷物を全部私の家に引き取ったのです。日記はその中にあり、父がどんなことを書いていたのか少々興味を持ちましてね。読んでみたのです。」
そこで言葉を切ると、エルキは寒そうに肩をすくめた。
雪はわずかではあるが、降っている。
神谷は、セーター姿のエルキを見て、あわててドアを開けエルキを中へ入れた。
食堂とかロビーといった気のきいた場所はここにはない。
神谷はエルキを部屋に通した。


「どうやら父は一度、鍵を失くしたらしいんです」
「鍵を失くしたって!?」
コートをハンガーに掛けようとしていた神谷は、思わず声を高めた。
考えてもいなかったことを告げられたための驚きと、もしかしてこれが事件解決への糸口になるやも知れぬと思う直感とが入り混じり、胸が高鳴った。
「日記にそう書いてあったんです。鍵は失くなったその日に戻ってきたらしいですがね。警察に届けられてあったようです。ええ、父が警察に出向き、鍵の落とし物がないか尋ねたんでしょう。そんなことが日記に書いてあったんですよ」
「鍵は失くしたその日に見つかったのですね」
うわずった声で、神谷は問うた。
「そうです。父はアパートに帰ってドアを開けようとした時にでも鍵を落としたことに気づいたのではないですかね。それで、警察へ行ったところ、すでに拾われて保管されていた。多分、そんなところでしょう」
「今の鍵の話は、コッコネン氏にされたんですね」
神谷は念を押さずにはいられなかった。
前住者が鍵を落とし、もしもその鍵を拾った人物が合鍵を作っていたとすれば…。


「話しました。日記を見つけたのが、実をいいますと、昨年の春なんですよ。家を建て増したのですが、その時、父の持ち物を整理していたら日記が出てきたんです。何しろ、父の持っていた物はそれまで一ヵ所にまとめたまま放っておいたものだから」
神谷は心がはやった。彼の調べた限りでは、ヨハンセン氏の住んでいた部屋の前住者が鍵を失くした事実は、警察の発表にはなかった。
警察の知らない事実をアントンがつかみ出し、その糸をたどった。
そして…。
「警察にはそのことを話されましたか」
神谷は、胸の鼓動がふいに早まるのを覚えた。
警察が、エルキの父が鍵を落とした事実を知らないとすれば、事件を解く手掛かりをつかんだことになるかも知れない。


「いいえ、警察には話してないんです。事件が迷宮入りとなってからは、警察も訪ねて来なくなりましたからね。私も、今さら警察に話してもしようがない、それに言うほどのことでもないと思っていましたから」
エルキの言葉に神谷は息をのんだ。彼はせきこむようにして、
「鍵を失くした正確な日を知ってますか」
「もちろん」
口元に微笑をうかべ、エルキはズボンの尻ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
エルキはその紙を拡げ、
「一九七一年二月九日。あなたにこの話をすれば、失くした日も訊きたがるだろうと思い、メモしておいたんですよ」


エルキの父、アルト・ラウノは一九七一年二月九日に鍵を失くしている。
それは、アルト・ラウノが亡くなる三ヵ月前のことで、ヨハンセン氏殺害時件の起きるおよそ一年前のことだ。
鍵は失くしたその日に警察に届けられていた。
失くした鍵は、エルキの言葉によると、アルト・ラウノはアパートの入口の鍵と部屋の鍵の両方を一緒に束ねていたとのことであるから、その両方と考えてよい。
〈鍵を拾った人物が合鍵を作り、そのあとで警察に届けたのではないだろうか〉
鍵を拾った人物に、神谷は焦点を当ててみた。
鍵を拾った人物が、その鍵を持ったままでいたなら、恐らくアルト・ラウノは新しく鍵を作り替えたであろう。
実際には、失くした鍵はすぐに戻ってきたため、アルト・ラウノは鍵を作り直したりはしなかった。
しかし、拾った鍵には名前などついてはいない。
とすれば、どこの鍵かわかろうはずはないし、たとえ合鍵を作ったとしても役には立たないはずだ。


鍵を拾った人物が、その鍵の持ち主を知るにはどのような場合があるだろうか…。
アルト・ラウノが住んでいたアパート内で鍵が拾われたなら、各部屋の鍵穴に鍵を合わしていけばどの部屋の鍵か容易に知ることができる。
アパート内でなくとも、アパートの近くで鍵が拾われたなら、多少は面倒だが、同様の試みによって二個の鍵が符号するアパートと部屋を見つけることができるはずだ。
だが、そのようにして部屋を探り当てたと仮定して、鍵を拾った人物はなぜその時点で部屋に侵入しなかったのだろうか…。


理由は簡単に説明がつく。
拾った人物はいったん合鍵を作っておいて好機を待とうとしたのではないのか。
拾った後すぐに部屋に侵入した場合、万が一、居住者が戻って来ないとも限らない。
だが、それにしても、鍵が失くなってからヨハンセン氏が殺されるまでの一年余りの空白はどう説明すればよいのか。
それに、鍵を拾った人物が合鍵を作った後、そのままのこのこと警察に届けたりするものだろうか。
さまざまな憶測が神谷の頭の中を行きかった。
〈ともかく、警察へ行ってみよう。そこですべてがはっきりする〉



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