「タリア」第19章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


「タリア」第19章その1


クオピオ警察署は駅から五百メートルばかり離れた、町の北側にある。
消防車が二台あるだけの小さな消防署と民家の間にはさまれたこの警察署は、署長を含めて署員が八名の、警察署と呼ぶより派出所をいく分か大きくしたものと言った方がぴったりする。
濃紺色の制服を身につけた警官が数人、これといった事件もなくのんびりと談笑したり書類をいじっている光景が通りから見える。
厚いガラス張りのドアを押して中へ入った神谷は、署内にいる警官の注目をいっせいに浴びた。
「鍵を失くしてしまったのですが、届いていないでしょうか」
応対に出てきた若い警官に向って、神谷はあらかじめ考えておいた言葉を口にした。
「失くしたのはいつですか」
鼻の脇に赤いニキビを作ったその警官は問い返した。


「今朝です。泊まっている宿の鍵なんですが、歩いているうちにどこかで落としたらしい。宿の人に迷惑をかけたくないので探しているんですが、ひょっとしてここに届けられてるかと思って」
「今日はまだ、鍵の遺失物は一件も届いていないですね。夕刻にでももう一度、寄ってみたらどうですか。誰か拾っていたら、届けてくれるでしょうから」
「見つかったら拾い主の名も聞いておいてもらえますか。礼を言いたいから」
神谷はさり気なくそう言った。
「もちろんですよ。遺失物は一件一件記録されますから」
「拾い主の名もですか」
「ええ、そうですよ。拾った人の名前に住所、それに落とし主がわかればそれもすべて記録として残されます、それが僕の仕事なんです。警官になって三ヵ月しか経っていないので…」


童顔をほんのりと赤らめる警官を見つつ、神谷はこれならいけると自信を深めた。
警官を相手に、不自然さを感じさせずに過去の記録を調べようというのだから、相手が古株の刑事なら逆に神谷の探ろうとしている事柄を敏感にかぎとってしまうだろう。
そうなると、恐らく過去の記録は見せてもらえなくなるだろうと神谷は危惧していた。
迷宮入りの事件を、素人がしかも外国人がほじくり出していい顔をする警官なんかいやしまい。
「記録はどれくらいの期間保存されるのですか」
「十年です」
と答えてから、警官は物問いたげな目を神谷に向けた。神谷の真意に気づく術もないが、どうして彼がそのようなことを訊くのか疑問に思っているらしかった。


「ちょうど九年前になりますが、クオピオに来たことがあるんです。その時に、腕時計を失くしたものだから、もしかしてここに届けられていればと思って。あの時は急いでいたものだから、探す時間がなかったんですよ」
警官には、神谷の言葉を疑うなどといった気持は毛頭なかった。
「よかったら、調べてみましょうか。それが保管されているかも知れないし。たいして手間のかかることじゃないから。で、時計を失くしたのはいつのことですか」
警官は神谷を促すように言った。
「あれは確か七一年の二月、ちょっと待って下さい。手帳に日付を書いてあるはずですから…、ええ、二月九日。七一年の二月九日です」


数分後、警官は色あせた古いファイルを小脇にかかえて戻って来た。
「これが七一年の遺失物の記録です。七一年二月九日…」
ファイルを机上に置き、警官は頁をくった。
警官の指先を見守る神谷の胸は、早鐘を打ち始めた。
結果は、二月九日に遺失物はあった。
しかし、それは鍵ではなく高校の教科書一冊だけだった。
〈おかしい! そんなはずはない〉
神谷は警官を押しのけるようにして、開かれた頁の前後を確かめた。
同じことだった。
エルキの父が落とした鍵はここに届けられたはずなのに、遺失物として記録されていない。


「ないですね。ここに記録されていないとすれば、届けられなかったんでしょう。日本製の時計は優秀だから、拾った者がそのままポケットへ入れてしまったんでしょう」
神谷の耳には警官の言葉は入らなかった。
茫然としたまま、開かれた頁を見つめていた。
警官がファイルを閉じようとした時、ようやく神谷は我に返った。
もう一度、二月九日の欄を一字一字指でたどって調べた。
だが、アルト・ラウノが失くした鍵の件はどこにも記録されていない。
〈なぜ、あの鍵がこのファイルに記録されていないんだ。エルキは確かに七一年二月九日と言った。あるいは、日付が間違っていたのだろうか。それとも、エルキが俺をだました…〉
「どうですか、ありましたか」
警官の声に、神谷はしぶしぶ首を振った。
ファイルを戻そうとして、角のこすれた表紙に手をかけようとした。
その時だった。


(第19章その2へ)