第20章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


第20章その1


ヨハンセン氏の住んでいた部屋の所有者は、六日前に訪ねた時はまだ外国へ旅行中とのことだったが、予定どおりであれば昨日帰って来ているはずだ。
ユハ・ライナネンは予定通りに帰っていた。
絹のガウンをはおって玄関口に現れたライナネンは、なるほど評判通りの人好きのする老紳士然としていた。
顎の周りには見苦しくない程度に脂肪がつき、肉がややたるんではいるが肌はまだ三十代の人のようにつやつやとしている。
信頼のおけるしっかりしたまなざしの中には、やさしい光がこもっていた。
老紳士は神谷の用件に二、三の質問を挟んでから、ドアの内側のベルを押し、メイドを呼んだ。
「クローゼットの奥の棚。上から三段目に鍵の入った箱があるから、それを持って来ておくれ」
一分と待たないうちに、メイドは言われたとおりの箱を持って来た。
老紳士はその箱から鍵を二つ取り出した。
「これがヨハンセン氏が住んでいた当時の部屋の鍵とアパートの入口の鍵です」


クオピオに、鍵屋は一軒あるだけだ。
街の南端に古い木造建ての商店が十軒ほど軒を並べており、その中の一軒が鍵屋だった。
どの店も、建てられてから三十年は経っているであろう、壁は風雪にさらされいたるところに窪みと黒っぽいしみができている。
鍵屋はすぐにわかった。
ドアの上に、よく目立つ大きな鍵型をした鉄が打ち付けられている。
もっとも、その代物は錆と汚れとで黒ずんではいるが。
店内は薄暗く、床や天井には鉄と油とちりのにおいが浸みついていた。
入口を入って正面の壁には何十本もの釘が打ち付けられ、そこにはさまざまな形をした鍵が吊されている。
店主は機械に鍵をはさみ、やすりで仕上げている最中であった。


「この鍵の合鍵は作れますか」
足音に気づき顔を上げた店主に、神谷は声をかけた。
店主はやすりを動かす手を休め、顔を上げ、金属の粉で汚れた老眼鏡の上端から黄色く濁った細い目をのぞかせた。
「どれ」
そう言って、店主は神谷の手から鍵をひったくった。
「五分も待ってもらえば、すぐに作れるがね」
「実は、この鍵のことで調べていただきたいことがあるんです」
神谷はすかさずそう言ってから、
「これの合鍵が以前にも作られたはずなんですが、それをぜひ確かめてもらいたいのです」
と言い添えた。
六十をとうに過ぎたと思える老店主は合点のいかない様子だった。
鍵と神谷をせわしなく交互に見つめ、黒く汚れた指先で髪の薄くなった頭をかいた。


「そりゃ、調べてみりゃわからんこともないが、ずいぶんおかしなことを調べるんだね」
「やってもらえるのですか」
「見てのとおりだ時間はある。どれ、それで、合鍵はいつ作られたのか?」
爪の先にこびりついたふけの塊をはじき飛ばし、店を始めてからほとんど洗ったこともなさそうな黒ずんだエプロンに両手をこすりつけた。
「九年前です」
「九年前!? また、ずい分昔の話だ」
「無理ですか。作られた日はわかっていますが」
神谷は祈るような気持ちで言った。
「うん?」
「七一年の二月九日です」


それを聞くと、老店主は鍵を台の上に置いた。
「それだけわかればなんとかなるだろう。伝票を調べてみよう」
十分余り経って、老店主は戻ってきた。
手には、茶色く変色してほこりですすけた紙の束を持っている。
「これが、あんたの言う七一年分の伝票だ。何せ、店をやり始めた時から伝票を取ってあるんで、見つけるのに難儀したぞ。三十年分もあるから。で、二月九日?…」
老店主は、ほこりでまっ黒になった指先を時折なめながら伝票を繰っていたが、やがて満足そうに一人でうなずくと、ひょいっと伝票を神谷の目の前に突き出した。
「これがそうだな。二月九日の伝票だ。うーん? けっこう、客があったんだな。合鍵を五個も作ってるとは」
神谷から預かった二つの鍵を、壁に吊した何十個もの鍵と見比べていたが、ははーんと言って、指先で眼鏡を押し上げた。


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