第20章その2

(第20章その2)


老店主は二つの鍵を釘から外し、神谷に見せた。
「この合鍵を作るには、ほら、この元になる鍵型がいるんだ。伝票を見ても、あんたにはわからんだろうが…。そこに、元の鍵型の番号が書いてあって、それを見ればどんな鍵を作ったか一目でわかる」
神谷に説明しながら、老店主は元型の番号と伝票のそれとを見比べた。
「ははあん、作ってるぞ。二つとも、どうだ、番号がぴったりと合うだろう」
神谷の予想どおり、二つの合鍵は二月九日に作られていた。
これで、犯人はアルト・ラウノが落とした鍵から合鍵を作り、それを使ってヨハンセン氏宅へ侵入したことは明白な事実となった。
だが、それより、この店主は合鍵を作った人物を覚えているだろうか。
神谷はそれを聞こうと、伝票から顔を上げた。
すると老店主は首をひねりながら、薄らいだ記憶をたぐり出すかのような口ぶりで、
「いつだったか、一年ほど前だったか。この二つの鍵のことだったと思うが、あんたと同じように、合鍵を作った覚えがあるか、訊きに来た者がいた」


伝票を台の上に置こうとしていた神谷の手が止まった。
「それは、アントン・コッコネン氏じゃなかったですか。縁なしの眼鏡をかけた、五十過ぎの身なりのいい」
神谷は早口にいっきに喋った。
老店主はそばの丸椅子に小さい尻を降ろし、
「名前は聞いてないが、五十年輩で眼鏡をかけた男だったことは覚えている」
「帽子を、濃い灰色の帽子をかぶっていましたか」
神谷はアントンの特徴を言った。
「そうだな、うん、そうそう、色は忘れたが、あんたの言うように帽子をかぶってた」
老店主の言う人物をアントンと考えて間違いない。
神谷は、アントンの探っていた事件の核心に、一歩近づいた気がした。
「この合鍵を注文した客に覚えはないですか」
そう問うてから、神谷はつばをのみこんだ。
今までずっと追いかけてきた犯人がわかるかも知れない。
少なくとも、犯人の特徴がわかればそこから犯人の足跡を辿れる可能性は大いにある。


しかし、老店主の返事はそっけなかった。
九年も前のことを覚えているはずがないと言う。
神谷の胸の中で、ふくらみかけた希望が、針で風船を突いたように一瞬にしてしぼんでしまった。
アルト・ラウノが鍵をなくしたその日に合鍵が作られ、元の鍵は警察に届けられている。
そして、遺失物保管記録ファイルから、その鍵に関する記録だけが消えている。
それにしても、ここまでわかっていながらその先へ進めないのは神谷にとって何とも耐えがたい無念だった。


いったいにして、これらの事件は腑に落ちない点が多すぎた。
タリア殺害は連続殺人事件の中の一事件として扱われ、アントンの死は単なる交通事故とされた。
そして、ヨハンセン氏殺害事件は迷宮入りである。
神谷は、もうこのへんで事件を追うのを止めたい思いにかられていた。
一つの事件を追うと、また別な事件につながり、ついにはこのいまいましいクオピオ事件である。
鍵屋を出ると、神谷は無意識のうちに足を湖の方角へ向けた。
暖かい部屋へ戻るより、冷たい風と雪の吹きすさぶ湖岸を一人で歩いていたかった。
ところどころ凍った路上を、何度もころびそうになりながら、神谷は湖のほとりへと足を運んだ。
挫折と絶望に追いやられるたびに、生来の忍耐力と執念そしてタリアへの愛とでもって、神谷はどうにか苦境を乗り越えてきた。
しかし、期待をかけていた最後の綱が切れてしまった今、事件を解くことは永久に不可能とさえ思えた。


絶望にうちのめされ、頭を垂れて歩く神谷の足は重かった。
日本を出て以来、二ヵ月が過ぎている。
それなのに、タリアを殺した犯人の見当さえついていない。
湖面を吹き抜けて来る強風が、神谷の顔といわず全身に固い粉雪を叩きつけている。
神谷はコートのポケットに両手をつっこんだまま、風にもてあそばれながらも一歩一歩足を前に進めていた。
雪が目の中に飛び込んできて初めて、神谷は手で顔をおおった。
「タリア、どうすればいいんだ。俺には、もうこれ以上どうにもできやしない。くそっ! お前の命を奪った奴は、誰なんだ!」
神谷はまっ暗な湖に向って、大声で叫んだ。



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