第26章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。



(第26章その1)


クオピオにアパートあるいは下宿屋は三十数軒ある。
神谷はそれらの一軒一軒を訪ねて回った。
しかし、十年近くも前のことなので、部屋を貸した本人の記憶違いもあったりして調べるのにかなり手間どった。
それでも、結果は、七一年二月の時点で部屋を借りていたドイツ人は二人いることがわかった。
一人はリューベックから来た男子学生で、当時の年齢で十八歳。
あと一人は二十八歳の男で、ドライアイヒからやって来たということだった。
神谷は後者の、当時二十八歳の男に的を絞った。


十五年前に夫を亡くして以来ずっと下宿屋を営み生計をたててきたという女主人は、ぼってりした体を揺り動かし、いったん家の奥へ消えてから、宿帳らしきものを手に神谷の前へ戻ってきた。
「ドイツ人に部屋を貸したのは、あの人が初めてだったのよ」
女主人はケースから取り出した老眼鏡を耳に掛け、神谷の顔にちらっと視線を投げた。
「えーと、あー、これね。アドルフ・グレーペ。そうそう、そんな名前だった」
彼女はそう言って、宿帳を神谷に見やすいように逆さに向けた。
そこには次のように記されていた。
氏名、アドルフ・グレーペ
国籍、西ドイツ
生年月日、一九四三年九月八日
入室日、一九七一年一月五日
退室日、一九七一年三月十八日
フィンランド入国前の最終滞在地、ストックホルム
出身地、ドライアイヒ


〈アドルフ・グレーペ。ドライアイヒ…〉
宿帳に記された事柄を、神谷は記憶のひだに刻みこんだ。
「アドルフ・グレーペはどのような人物でした?」
「そうね、私の知ってることと言えば、あの人の父親はフィン人でクオピオの生まれだということぐらいだわね」
神谷は心の中でうなずいた。
コリョネンの話した混血男をアドルフ・グレーペと考えて間違いない。
「そのことは、彼が直接あなたに言ったのですか」
「ああ、そうよ。何でも、父親を見つけるまで、ここに滞在するとか言ってたわね。かわいそうに、見つからずじまいだったらしいけど」
「父親のことを、彼はどれくらい知ってたのですか」


女主人は眼鏡を外すと、ケースにしまい、
「それが、クオピオの生まれらしいということしか知らなかったんだから。名前すら知らなかったのよ。あれじゃ、見つけるのは最初から無理な話なのよ。
あの人の父親が本当にクオピオ出身だったとしてもよ、ここからフランクフルトへ行った兵隊は百人近くもいたんだから。
その中の誰かがドイツ女にちょっかいを出したんだろうけど、そりゃ、今じゃ皆、家庭を持っているんだし、おいそれと自分のせがれだなんて言えやしないじゃないの」
「グレーペ氏の顔は覚えてますか」
女主人の覚えているアドルフ・グレーペの人相は、甘い顔をした一見美男子タイプの男といった、きわめて抽象的なものだった。
眼の色や髪の毛の色など、具体的な特徴は忘れてしまっていた。


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