第27章その2

(第27章その2)



「アドルフに部屋を貸したのはもう何年も前のことだし、今どこにいるかなどと尋ねられても見当もつかん。アドルフがドライアイヒを出ていってから、戻ってきたことがあるかって? そんな話は耳にしとらんよ」
アドルフ・グレーペに部屋を貸したことのあるその老人は、ドアの陰で聞き耳をたてている連れ合いの方へ顔を向けた。
夫人は夫の背後から姿を表すと、神谷をじろじろながめ回し、大儀そうに口を開いた。
「さあ、ここを出て行ったきり、どうしているかしらね」
彼女の声には、アドルフ・グレーペに対する非難の調子がこもっていた。
そして、神谷を見る目にもどこか敵がい心のようなものが混じっていた。


「あの男を追っ払ってすっとしたわ。最初ここへ来た時は、礼儀正しくて感じのいい人だったんだけどね。顔もなかなかハンサムだったし。そう言えば、ねえ、あんた、あの話をしてあげたら」
彼女は、あんたは背が高いのだけが取り得なのよとでもいいたげに夫の顔を見上げ、肉厚な唇にみだらな笑いを浮かべるのだった。
老妻とはいっても、夫より十は若いであろう、まだ五十を少し越えた程度に見える。
「あの話か。もういいじゃないか。すんだことなんだから。それに、この人にそんな話をしてもしようがないじゃないか」
老人は気のない返事でそう言った。
「いつもそうなのよ、あんたって人は。しまりがないったら、ありゃしない。そんなだから、あの男に二年もの間のぞかれてたのに気づかなかったのよ」


彼女はいったん喋り出したら気のすむまで喋らないと止まらないタイプの女性だった。
彼女の話を要約すると、アドルフ・グレーペはおよそ二年間、ずっと彼らの性行為をドアのすき間からのぞき見していたということになる。
二年間ずっとというのは恐らく彼女の妄想であろうが、グレーペがのぞき見をしているのを見つけた決定的瞬間を最後に、彼を家から追い出したらしかった。
「彼はどこで働いてたのですか」
彼女の話が一段落するのを待って、神谷は質問した。
「そこだよ。ほら、目の前に大きな工場があるだろう。あそこに勤めていたんだよ」
老人は通りの向こうを指差して言った。
アドルフの働いていた場所は、さきほど神谷が見たばかりのノードメンデ工場だった。


「ステレオだとかラジオなんかを組み立てていたんだよ」
「グレーペ氏の母親は、彼の幼いころに亡くなったと聞いていますが」
「なんでもあの男が三つか四つの時に死んだとかいう話を、聞いたことがあるが」
「母親に死なれたあと、誰かに引きとられて育てられたはずですが、その人をご存じないですか」
神谷の問いに、夫妻は互いの顔を見合わせた。
「あんた、あの女の人じゃないかしらね。時々、ここへ来てたじゃない。ほら、赤茶けたバサバサの髪で、顔中そばかすだらけの」
「その人なら、ネッカー通りで店を開いてるよ。たしか、靴屋だったと思うが」



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