第28章その3

(第28章その3)



「九年前にこの町を出たきりなの。あー、どしたらいいの。せっかく、せっかくあの子の父親が見つかったというのに」
神谷は唇をかんだ。
〈だめか。くそっ、ここまできて、アドルフの居所を知っている者がいないなんて、だが〉
「誰か、アドルフを見かけた者がいるんじゃないでしょうか。ドライアイヒでなくとも、ストックホルムかどこかで」
諦めたくない。
なんとしてでも、アドルフ・グレーペを追いつめたい。


形こそ違え、神谷の願いとライザ・ワイゼンバッハの願いは同じだった。
ストックホルム…」
ワイゼンバッハは両手を顔から離し、宙を見つめて、つぶやいた。
「三年前にアドルフをそこで見かけたって誰かが言ってたけれど、それも、ほんの少ししか話しをしなかったそうよ。でも、それじゃ、アドルフを見つけるのにたいした役にはたたないんじゃない?」
ともかく、そこから糸をたぐっていくほかない。
神谷は、ストックホルムでアドルフを見たという人物の名を問うたが、彼女は覚えていなかった。
ただ、数人の名をあげ、その中にいるはずだと言った。


それだけわかれば上出来だ。彼らに会うにはどこへ行けばよいかを聞き、神谷はそれを手帳に記した。
「アドルフがクオピオへ行ったことを知ってたのは、あなただけでしょうか。他に、誰か心当りはないですか」
彼女は諦めた表情で、弱々しく首を振った。
「いないはずよ。アドルフには、これといって深い付き合いをしていた人はいなかったから。無口で、おとなしい子だったのよ」
「アドルフの写真を一枚もらえますか。彼を探すのに必要ですから」


ワイゼンバッハの持ってきた写真は、十年以上も前に写したものだったが、写真自体はカラーで撮られており、アドルフ・グレーペの顔ははっきり写っていた。
鮮やかな金髪の巻毛、陽ざしをうけて眩しそうな薄いブルーの瞳。
女が見ればうっとりするような、ハンサムな顔立ち。
だが、一点を見つめたブルーの瞳には、どこか正常でないものが感じられる。
アドルフ・グレーペの居所を知る可能性のある人間、そしてアドルフの顔写真。
ライザ・ワイゼンバッハから得た収穫は、神谷とアドルフとの距離を、わずかではあるが縮めてくれたのだった。


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