第32章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


(第32章その1)


十一月十四日夜、神谷はヘルシンキに戻り着いた。
船を降りると、外は夕闇がたちこめ、降りつのる雪で波止場は白一色だった。
港近くのマーケット広場にも、ケッコネン大統領の官邸を守る警備兵の軍帽にも、雪はたえまなく降り注いでいる。
市電が、ガタゴト音を響かせ神谷を追い越し、二十メートル程先の停留所で数人の客を降ろした。
市電は、ゆっくり歩いてくる神谷を待っているみたいであったが、神谷は手を横に振って乗る意志のない旨を伝えた。


走り去って行く市電を見送りながら、神谷は再び歩き出した。
街燈の光が、路上に積もった雪に反射して、周囲は昼のように明るい。
半時間近く、冷たい風の中を歩いているうちに、神谷はロウタサリー大橋にまで来ていた。
足を止め、欄干に手をついてもたれかかった。
暗い海面が揺れ、ずっと遠くに、ヘルシンキの街の灯が雪の中にかすんで見える。
雪は相変わらず激しく降っていたが、神谷は寒いとは思わなかった。
欄干に積もった雪を両手にすくい、口に持っていった。
雪が口の中で溶け、飲みこんだ。
そして、自分でも気づかぬうちに首を振り、まっ暗な空を見上げていた。


「タリア」
神谷は、ぽつんと小さい声に出して呼んでみた。
思い出が胸に甦り、今にもタリアが眼の前に現れてきそうだった。
「タリア」
もう一度、さっきより少し声を高くして呼んだ。
耳を澄ました。
空に顔を向けたまま、じっとその場にたたずみ、タリアと最後に会った日のことを回想していた―


去年の十二月二十五日、クリスマスの日だった。
ヘルシンキを去る前の最後の夜を神谷はタリアの部屋で過ごした。
何度も何度も愛を確かめ合い、朝方近くになって互いの胸と胸をくっつけ合ったまま眠ってしまい、汽車の出る一時間前に目がさめたんだった。
慌ててとび起き、二人で一緒にシャワーを浴び、タリアが前の晩作っておいてくれたケーキを味もわからず口の中に放り込み、スーツケースを抱えて部屋を飛び出したんだった。


あの日も、雪が激しく降っていて、バスが来るのが遅れ、タリアも俺もうまく汽車に間にあうだろうかって心配したんだった。
あの時、彼女は俺の顔をのぞき見て、いたずらっぽくこう言ったっけ。
「このままバスが来なければいいのに…」
「どうして?」
「だって、そうすればあなたは汽車に乗り遅れて、帰れなくなるもの」
駅に着いたのが汽車の出る五分前だった。
まっ白に雪が積もったホームで、タリアは歯をかちかち鳴らせて震えていた。
俺もそうだった。
寒いから震えていたんじゃなく、別れるのがたまらなく寂しかったからだった。
「来年の夏まで会えないのね」
タリアは俺の肩に顔を寄せ、ぽつんと言った。
「すぐまた会えるさ。あと半年ちょっとのしんぼうだよ。それに、手紙を書くよ」
「マサト」
「どうしたの?」
「好きよ、大好き。愛してるわ」
「俺もだ、愛してるよ、タリア」
「私、日本語をもっと上手になってあなたのいい奥さんになれるように、もっと勉強するわ。だから、だから、早く迎えに来て…」
そう言ったタリアの瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、俺は彼女をきつく抱きしめた。
やがて、汽車はゆっくりとホームを離れ出し、俺は汽車に飛び乗った。
汽車は次第に駅から遠去かり、タリアの姿が豆粒ほどに小さくなってしまった。
それでも、彼女が俺の方に向って懸命に手を振っているのが、涙でかすんだ俺の目にぼんやりと映っていたんだった。


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