第35章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


(第35章その1)


駅を出たその足で、神谷は酒場『ムスタ・キッサ』を訪ねた。
ここは以前、アキが働いていたことのある店で、神谷も一度顔をのぞかせたことがあった。
その時に、マスターとはわりと気さくに言葉を交わした覚えがあった。
店は閉まっていたが、神谷は裏に回り、ブザーを押してマスターを呼んだ。
マスターは六十を少し越えたと思える年齢の、ふさふさした白髪を真ん中から分け、店ではいつも蝶ネクタイを結んだ、お洒落な老店主だった。
若い者と一緒になって話をするのが好きで、気がむけば、店に遊びに来ている自分の孫ほどの年齢の娘たちと踊ったりもする。


「あれ、あんたはたしか、アキの」
雪のこびりついた木戸を押し開け外に顔を出したマスターは、神谷の姿を見るなりそう言った。
「アキの友人のマサトです」
マスターは神谷のことを覚えていた。いかにもうれしそうにうなずき、神谷に中へ入れと言った。
神谷が木戸をくぐり中へ入ると、マスターは玄関横のドアを開け、隣接する酒場へと入っていった。
薄暗い照明をともし、テーブルの上に逆さに置かれた椅子を一脚降ろし、神谷をそこに座らせ、自分はカウンターの中へ入った。
「何にする? 熱いコーヒーでも飲んで体を温めるといい」


マスターはカウンターの奥で湯を沸かし、コーヒーをひき始めた。
神谷は、コーヒーの準備ができるまで、黙って待っていた。
「実は、今日ここへ来たのは、第二次大戦中のことを聞かせてもらいたくてなんです」
熱くほろ苦いコーヒーをすすりながら、神谷は言った。
「ほう、そんな古いことを、なんでまたあんたが?」
マスターは人なつっこい眼に露わな好奇心を浮かべ、疑問を口にした。
「人を探しているんです。ドイツ人の友人に代わって探しているんですが、彼の父親がクオピオにいるらしいんです」
神谷は事件のことには触れずに、アドルフが生まれたいきさつを手短に話して聞かせた。
「ほう? それで、そのドイツ人の父親がクオピオにいると?」
マスターは神谷の話を神妙な面持ちで聞いていた。


「しかし、クオピオといっても、ただの田舎町じゃないぞ。人口五万の町だ。鍵屋のオラヴィから耳にたこができるほどドライアイヒのことを聞かされたから俺もよく知ってるが、あそこへ行った者は百人は下らんぞ。その中からどうやって、見つける?」
「クオピオ警察のハッカネン署長かクルマライネン刑事部長のどちらかだってことまではわかっているんです。もし、彼らのどちらかがドライアイヒへ従軍したことがあれば、その人物が友人の父親に違いないんです」
神谷が言い終わると、マスターはカップに残ったコーヒーをごくっと音をたてて一気に飲み干した。
「よくわからんな。どうしてその二人に絞れるのか」
マスターは大げさに首を傾げ、神谷の顔をのぞき込むようにして言うのだった。
神谷は口を閉じたまま、マスターの言葉を待った。


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