第35章その2

(第35章その2)


マスターは神谷の言葉に何か思案しているふうであった。
「クルマライネンはあそこへはいってない。あれは俺と同じで、肺が悪いんだ。結核だ。こう寒いと、皆、胸をやられちまう。まあ、それで軍隊には入れなかったんだ」
「それじゃ、ハッカネン署長が?」
思わず神谷はそう言った。
誰がアドルフの父親なのか早く知りたくて、気がはやってしようがなかった。
「うん、そうだ。ハッカネンだ。さっきも言ったが鍵屋のオラヴィと俺は子供の頃からのつき合いなんだよ。そのオラヴィがドライアイヒの話をする時には、いつもハッカネンの名前がでてくるんだ。
ハッカネンとオラヴィは大戦の時ずっと同じ隊にいたらしい。
それで、ハッカネンはオラヴィの下についていたそうだ。
あいつらは大戦が始まって二年間ほどはスオミにいたんだが、戦争が激しくなるとドイツに従軍していった。
クオピオから行った者は、皆ドライアイヒだったと聞いている」


「ありがとう、マスター」
神谷は礼を言い、腰を上げようとした。
その神谷の肩を軽く叩き、神谷を椅子に座り直させると、マスターは眼に親しげな優しい色を浮かべ、これだけは伝えておきたいとでも言いたげに続けるのだった。
「俺が子供のころ、親父によく聞かされたものだった。
ヤーパン(日本)という国は魔法の国だと。ちっぽけな国のくせして、どでかいロシアを打ち破ったんだからと。
どこにあれだけの力を秘めているのか見当もつかん、ヤーパンのおかげでスオミフィンランド)はロシアに国を奪われずに済んだんだと。
親父がヤーパンの話をするときは、いつも眼が輝いていた。
俺たちの世代の者は皆、ヤーパンに尊敬と憧れを抱いていた。今でもそれは同じだろ」
そう言って、マスターは神谷の両手を力強く握りしめた。


「ありがとう、マスター」
神谷は胸の奥に熱いものが湧いてくるのを感じていた。
「さあ、行け」
マスターは神谷の背を押すようにして促し、
「幸運を祈ってるぞ。ここまで来たら、後はいっきに突っ走るしかないぞ」
「…」
「そんな神妙な顔しなくてもいい。こんなちっぽけな町で、しかも日本人がちょろちょろ動き回っていれば、知りたくなくともいろんな事が耳に入ってくる」
戸口で立ち止まった神谷に、マスターはニヤっと笑って片眼を閉じてみせた。
それから、神谷に向って、追い払うような仕草で手を握り、
「さあ、行け。幸運を祈ってるぞ。ヤパニライネン(日本人)よ」


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