第36章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


(第36章その1)


「『ムスタ・キッサ』のマスターに話を聞いて、ここへ来たんですが」
「うん、なるほどな。まあ、座れ」
工具を磨く手を休め、
「あらましは、奴から聞いてる。お前さんに、話して聞かせてやってくれと言われた。ハッカネンのことをな」
と言ってから、四十年近く前の出来事を語り始めた。


「あれはわしが三十になる前のことだったから、ハッカネンは二十かそこいらだったはずだ。あいつはしょっちゅう上官に怒鳴られていたが、銃を持たせたら誰もあれの右に出る者はいなかった。
ドイツ娘とつき合っていたかって? ふん、あのころのハッカネンは射撃もうまかったが、あっちの方のピストルもずい分と使ってたみたいだ。
くわしいことは知らんが、こそこそ隠れて何かしていたことは覚えてる。
上官に見つかりゃしないかと、こっちがひやひやしたもんだ…。
それが今じゃ、署長だからな。
落ち着き払って、堂に入ったもんだ」
「署長になってどれくらいになるんですか」
オラヴィの話が現在に戻ったのを機に、神谷は言葉をさしはさんだ。


「そうだなあ、七、八年になるんじゃないかな」
「戦争から帰ってきてすぐに警官になったのですか」
「そうだ、ドイツから戻ってすぐに警官になったようだ。たいした手柄をたてたことはなかったようだが、けっこうまじめにやっていたんじゃないか。町の者の評判もいいんじゃないかな」
オラヴィから知りえたことはその他にもあった。


つまり、ハッカネンは現在、妻と二人で暮らしていること。
家は町の東側のユバスミナ通りにあること。
二人の息子はすでに結婚してそれぞれの家庭を持っていること。
夫婦仲は円満で近所づき合いもまあまあよいこと。
趣味は射撃で、五年前には警察の全国大会で八位になっていること。
「まあ、俺は世間話ってやつは好かんから、何も訊かないが。こうやっていろいろと訊き回っているお前さんにも、それなりの事情ってやつがあるんだろうが。
まあ、あまり昔のことはほじくり返さん方が身のためかも知れんぞ」
最後にオラヴィはしんみりとした口調でそう言った。
神谷はそれには答えなかった。
誰も好き好んで他人の昔をほじくり出したりなんかしやしない。
だが、俺にはそうしなければならない理由があるんだ。


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