第37章その2

(第37章その2)


「アドルフの父親だって!?」
アキは写真を手にしたまま、驚きを声に出して言った。
それに答えるように、神谷は、昨晩クオピオへ行きハッカネンのアリバイを調べ、たった今ヘルシンキへ戻ってきた経過をたんたんとした口調で話した。
「奴がタリアとアントンを殺した犯人だということはわかっている。アリバイのないこともつかんでいる。奴がアムステルダムへ行ったことも調べがついている。
でも、それだけじゃどうしようもないんだ。
空港を出てからのタリアの行動はアムステルダムの警察が調べ上げているはずだ。
それにもかかわらず、タリアを見た目撃者がいない。
今さら、俺が目撃者を探したところで、そんなもの見つかりっこない」
神谷の喋るのを、アキは黙って聞いていた。


沈黙がしばらく続いた後、アキは、写真を神谷の方へ押し返し、
「タリアの殺害に決め手がないなら、アントンの場合はどうなんだ。ハッカネンを攻略する可能性はこのあたりにあるんじゃないのか。
俺はそんな気がする。アントンの交通事故をあんたは調べたのかい」
ヘルシンキ警察交通取締課でえた知識を、神谷はアキに告げた。
それを聞くとアキは腕組みをし、しばらく沈黙していたが、
「ハッカネンが車体に細工をしたんじゃないのか、そんな気がするな」
アキの思いつきに対し、神谷は空しく首をふった。


「事故が起きたのはタイヤがパンクしたためだ。車体に細工したものとは異質だ」
またも沈黙が続いたが、アキが突然、パチンと指を鳴らした。
「あいつは射撃の名手。あんたは、さっき、そう言ったね」
アキは体を前に乗り出して言った。
神谷はそうだと言った。
「タイヤだ。あいつは車のタイヤを狙い打ったんだ。走っている車の右前輪が銃でぶち抜かれたら、たまったもんじゃない。
ハンドルを取られるのは当たり前だ。おまけに、事故が起きたのはカーブだったっていうじゃないか」
「そうだ、道路がカーブしている所で事故は起きた」
神谷はアキの意見に同意した。


アキは続けた。
「よし、当って砕けろだ。アントンの車を調べるんだ。恐らく、警察はおざなりの事故調査しかしていないだろう。車体に、弾丸が残っている可能性だってある」
アキは腰を半分うかせ、興奮気味に喋った。神谷の瞳が輝き始めた。
もし、アキの言うようにアントンの車に弾丸が残っているなら、ハッカネンを打ち崩すことができる。
その弾丸が、ハッカネンの悪を暴く唯一の決め手となってくれるはずだ。
「行こう、車を調べるんだ」
アキが立ち上がると、神谷はアキの興奮を抑えるかのように、
「車はスクラップ場に運ばれてしまっている。どこのスクラップ場かもわかっちゃいない」
「じゃ、そのスクラップ場を先に探そう」


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第37章その1

第37章その1


午後四時二十分、神谷はヘルシンキ空港に到着するや、シエキネンに電話を入れた。
その結果、ハッカネンは六月十一日午前十一時三十分発アムステルダム行きの便に乗っていることがつかめた。
だが、そこまで辿り着いた時、神谷は、今まで張りつめていた神経がふいに崩れていくのを感じた。
〈ハッカネンは、六月十一日、たしかにアムステルダムへ行っている。だが、それがどうしたと言うんだ。奴が、タリアの殺されたのと同じ日にアムステルダムへ行ったからといって、それがタリア殺害の証拠になるというのか。
そんなものはなんにもなりやしない。
タリアがアムステルダムへ着いてからの足取りは、警察の手によって調べ尽くされているんだ。
その中で、彼女が誰かと一緒にいたなどと指摘する事実は何一つない。
たとえ、六月十一日、スキポール空港でハッカネンを見たと証言する人物が現れたとしても、それだけのことでしかない。
奴をタリア殺害犯とする根拠はどこにもありやしない。
アムステルダムで、タリアとハッカネンが一緒にいる光景を目撃した者がいさえすれば、奴を追い込める…。
だが、それはアムステルダムの警察が何回も調べたことだ〉


アリバイを崩せば何とかなると思っていた。
だが、そのアリバイを崩した今、神谷はその次になすべきことがわからなかった。
むしろ、アリバイを崩してもそれが何の決め手にもならないことを悟るのみだった。
事件を追いかけて以来何度目かの絶望を、神谷は最後の気力を振り絞り、それを乗り越えようと努めた。
ハッカネンがタリアを殺害したのだとする推理は、神谷の胸の中で動かしようのないほど強く固まっていた。
それだけに、ここへきてハッカネンの仮面をはぐことを諦めるなどとうていできはしなかった。
だが、かといって、どうすればハッカネンの罪を暴くことができるのか神谷にこれといって考えはなかった。


午後六時、空港からのバスがヘルシンキ駅横のターミナルに到着すると、神谷は先ずシエキネンに会いにサノマット社へ出向いた。
しかし、シエキネンは急な取材が入り、現場へ直行したということだった。
ただ、代わりに出て来たアシスタントらしき若い娘から、「ヤパニライネンが来たら、この写真を渡すように」って言われているのでと写真を渡された。


次に、彼は足を『カイボ・グリル』へ向けた。
車のとぎれるのを待って、通りを横切り、エスカレーターで二階へ上がる。
踊り場の手すりにもたれてたばこを吸いながら駅前の通りを見降ろしている十六、七の娘たちの背後を通り、『カイボ・グリル』のドアを押す。
いつものように奥の方へ行こうとすると、聞き覚えのある声が神谷の名を呼んだ。
アキだった。
神谷は、窓際の席に一人で腰かけているアキの方へ近づいた。
「探してたんだ。で、どうだった。あんたの推理の結果は?」
アキは器用な手つきでタバコを巻きながら言った。
「犯人はわかったよ」
神谷は、アキの正面に、疲れた体を投げ出すようにして座った。
コートのポケットから先ほどサノマット社で入手した一枚の写真を取り出し、それをアキに見せた。
「この男がそうだ。クオピオ警察の署長でハッカネンという名だ。そいつはアドルフの父親なんだ」


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第36章その3

(第36章その3)


短い滑走路が一本あるだけのローカル空港で神谷が調べたことは、六月十一日クオピオ発ヘルシンキ行きの飛行機にハッカネンが搭乗していたか否かであった。
最初に、調べてもらおうと頼んだときにはあっさりと断わられてしまった。
だが、これで諦めるわけにはいかなかった。
神谷はサノマット社のシエキネンに連絡をとり、助けを求めた。
「そんなことなら、お安いご用だ。私の方から手を回しておこう」
結果は、シエキネンのいうとおりとなった。
係の女性が搭乗者リストを調べるのを、神谷は熱い食い入るような眼で見守った。
結果は、ハッカネンは六月十一日午前九時三十分発のヘルシンキ行きの便に間違いなく搭乗していた。


その便がヘルシンキに着いたのは午前十時四十五分。
そして、ヘルシンキからアムステルダムへはフランクフルト経由で午前十一時三十分発のフィン航空のフライトがある。
それを利用すればアムステルダムスキポール空港には午後三時二十五分に到着することがわかった。
〈タリアの到着するまでに、彼女を殺害する準備を整えておく時間はある〉
神谷は深く息を吸い込み、はやる気を抑えた。
ハッカネンの仮面を、警官という仮面をはぐにはあと一歩だ。
神谷はそう思った。


「すいませんが、今年の一月十六日の分も調べてもらえませんが。同じくヘルシンキ行きです」
神谷はしつこく食い下がった。
うまくすれば、一月十六日のハッカネンの動向もここでわかるかも知れない。
ハッカネンは一月十六日にヘルシンキへ行ってなければならない。
そうでなければ、アントンを事故死に見せかけて殺したりはできない。
そして、ヘルシンキへ行くには飛行機を利用するのが時間を無駄にせずにすむ。
「あるわ、一月十六日でしょ。ほら、ここにその人の名前が載ってるわ」


〈やった! やっぱりだ。一月十六日と六月十一日、ハッカネンはこの日クオピオを離れてヘルシンキへ行った。
よしっ! 次はヘルシンキ空港だ。
そこで、奴がアムステルダムへ行った事実を確かめるんだ。
それが確認できれば、奴を目撃した人物を探し出す…〉
クオピオを発つ前に、神谷はサノマット社のシエキネンに再び電話を入れ、ハッカネン署長の写真を手に入れたいこと、そして、ヘルシンキ空港発アムステルダム行き六月十一日の便にハッカネンが搭乗していたかどうかを調べて欲しいと依頼した。


「そんなことならお安いご用だ。まかせてくれ、ヤパニライネン。こっちへ着いたら電話をくれればいい。それ迄に、調べておく。写真はこっちで預かっておくのでいつでもとりに来ていい」


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第36章その2

(第36章その2)


次に神谷が訪ねたのは、ハッカネンの住んでいるユバスミナ通りであった。
そこは湖の近くにある通りで、一軒家が建ち並んでいる。
神谷はユバスミナ通りの住民を次々に訪ねて回った。
どうせ今夜になれば、日本人がハッカネンのことを聞いて回っていたという噂がハッカネンの耳に入るだろう。
それまでに、ハッカネンに関してできるだけ多くのことを知っておきたかった。
俺がハッカネンのことを探り回っていると知れば、奴は妨害に出てくるに違いない。
神谷はそう思った。


ユバスミナ通りの住民八人にハッカネンのことを尋ねたが、神谷の予想どおり、ほとんどの者が初めて見る外国人に、いうなれば仲間うちのハッカネンについて喋ろうとしなかった。
その中で一人だけ、イッコネンという名の五十年輩の主婦であったが、彼女は神谷にこんな話をしてくれた。


「六月十一日ですか? そうね、たしかその頃だったかしら? アランド島へ行ったのは。ちょっと待ってて、カレンダーを見ればすぐわかることだから。
…六月十一日、ええ、署長の奥さんと私と主人とで六月十一日の朝早くここを車で発ち、その日の夕刻にツルクへ着いたわ。
アランド島へはツルクから船で行ったの。
署長が私たちに合流したのは、そうね、十三日の昼過ぎだったかしら。
本当は朝に着く予定だったんだけれど、嵐で海が荒れたため船が出なかったの。
署長はヘルシンキに急用ができたため一緒に来れなかったみたいだったわ。
十三日からはここへ戻って来るまで、皆一緒だったわ。
ええ、二週間ずっと。
ねえ、あなた、そんなことを聞いてどうするの?
署長のことを聞いたりして、誰かに頼まれたの?」


ハッカネン署長は六月十一日から二週間、イッコネン夫婦らと一緒にボスニア湾に浮かぶアランド島へ夏期休暇に出かけていた。
しかも六月十一日のアリバイはあいまいだ。
イッコネン夫人を訪ねた後、神谷はクオピオ空港へ急いだ。

彼は、事件の核心に一歩一歩確実に近づきつつあると信じていた。
タリアの殺された六月十一日、その日ハッカネンはクオピオにいなかった。
ヘルシンキへ行ったということだ。
そのことから考えられるのは、ハッカネンはクオピオからヘルシンキを経由してアムステルダムへ行ったのではないのか。
そうなれば、当然、飛行機を使っているはずだ。


神谷はそのことに気づいて舌打ちした。
もう少し早く飛行機を調べることを思いついていれば、ユバスミナ通りの住人に探りを入れたりする必要はなかっただろうに。
ハッカネンに知られるのを少しでも遅らせられただろうに。
だが、今さら後悔してもはじまらない。


(第36章その3へ)

第36章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


(第36章その1)


「『ムスタ・キッサ』のマスターに話を聞いて、ここへ来たんですが」
「うん、なるほどな。まあ、座れ」
工具を磨く手を休め、
「あらましは、奴から聞いてる。お前さんに、話して聞かせてやってくれと言われた。ハッカネンのことをな」
と言ってから、四十年近く前の出来事を語り始めた。


「あれはわしが三十になる前のことだったから、ハッカネンは二十かそこいらだったはずだ。あいつはしょっちゅう上官に怒鳴られていたが、銃を持たせたら誰もあれの右に出る者はいなかった。
ドイツ娘とつき合っていたかって? ふん、あのころのハッカネンは射撃もうまかったが、あっちの方のピストルもずい分と使ってたみたいだ。
くわしいことは知らんが、こそこそ隠れて何かしていたことは覚えてる。
上官に見つかりゃしないかと、こっちがひやひやしたもんだ…。
それが今じゃ、署長だからな。
落ち着き払って、堂に入ったもんだ」
「署長になってどれくらいになるんですか」
オラヴィの話が現在に戻ったのを機に、神谷は言葉をさしはさんだ。


「そうだなあ、七、八年になるんじゃないかな」
「戦争から帰ってきてすぐに警官になったのですか」
「そうだ、ドイツから戻ってすぐに警官になったようだ。たいした手柄をたてたことはなかったようだが、けっこうまじめにやっていたんじゃないか。町の者の評判もいいんじゃないかな」
オラヴィから知りえたことはその他にもあった。


つまり、ハッカネンは現在、妻と二人で暮らしていること。
家は町の東側のユバスミナ通りにあること。
二人の息子はすでに結婚してそれぞれの家庭を持っていること。
夫婦仲は円満で近所づき合いもまあまあよいこと。
趣味は射撃で、五年前には警察の全国大会で八位になっていること。
「まあ、俺は世間話ってやつは好かんから、何も訊かないが。こうやっていろいろと訊き回っているお前さんにも、それなりの事情ってやつがあるんだろうが。
まあ、あまり昔のことはほじくり返さん方が身のためかも知れんぞ」
最後にオラヴィはしんみりとした口調でそう言った。
神谷はそれには答えなかった。
誰も好き好んで他人の昔をほじくり出したりなんかしやしない。
だが、俺にはそうしなければならない理由があるんだ。


(第36章その2へ)

第35章その3

(第35章その3)


アドルフ・グレーペの父親がわかった。
警察署長のハッカネン。
そのハッカネンがタリアを、そしてアントンを殺したのだ。
とうとう犯人をつきとめることができた。
ハッカネンが犯人であるとわかった時、最初、神谷はそのことしか頭になかった。
だが、犯人をつきとめることよりも、その犯人を告発することの方がずっと難しいのだと気づくと、神谷は急に不安を覚えた。
〈問題はこれからなんだ。ハッカネンを打ち崩せるかどうかは、これからが勝負なんだ〉
神谷は深く息を吸い込み、逸る心を落ち着かせようとした。


二つの殺人事件の犯人がクオピオ警察署の署長ハッカネンであることを、どのようにして証明すればよいのか、神谷にこれといった考えはなかった。
彼にあるのはただ、
〈まず、ハッカネンのアリバイを調べること。タリアとアントンが死亡した日の奴のアリバイだ〉
しかし、それとてもどうやって調べればよいのか名案があるわけではなかった。
クオピオ警察の連中に体当たりでぶつかって、ハッカネンの事件当日のアリバイを聞くわけにはいかないのだ。
一月十六日と六月十一日。
ハッカネンはこのいずれの日にもアリバイはないはずだ。
神谷はそう信じていた。
もし、万が一にでもハッカネンに両日のアリバイがあるなら、神谷の推理は根本から崩れてしまう。
〈絶対にそんなことがあるものか。奴にアリバイなどあってたまるか!〉


酒場を去り、これからどこへ行けばよいのかもわからぬままに、神谷は町を歩いていた。
雪は小降りで風もそう強くは吹いていなかったが、空気は身を裂くように冷たかった。
三週間前に来た時とは比較にならないほどの寒さだ。
不気味な鉛色の厚い雲が空をうごめいている。
今夜あるいは明日には猛吹雪がやって来そうな気配だった。
クオピオ駅の近くまで来ると、神谷は足を止め、しばらくためらっていたが、決心がついたのか北の方へ向けて歩き出した。
駅から五百メートルほど北へ行ったところにある小さなレストランへ入った。


通りの向こう側が見える席に座り、厚切りのレモンを浮かせた紅茶をすすった。
神谷のいる場所からは、クオピオ警察署の正面玄関がはっきり見える。
だからといって、どうこうするわけでもないのだが、神谷はただ漠然とここまで足を運んできたのだった。
ガラス扉の向こう側で立ち動く警官の姿を眺めながら、神谷はハッカネン署長の姿を脳裡に思い浮かべていた。


中背の肩巾の広いがっしりした体つき。
四角ばった顔に眼光の鋭い眼。
前額部の禿げかかった頭。
ハッカネンについて神谷の知っていることといえばそれくらいでしかなかった。
ほとんど何も知らないといった方が早いくらいだ。
神谷はそのことに気づくと、こんなところで無駄に時間を費やしている自分に苛立ちを覚えた。
〈俺はハッカネンについてまだ何も知っちゃいやしない〉
レストランを出、神谷は鍵屋のオラヴィに会いにいった。


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第35章その2

(第35章その2)


マスターは神谷の言葉に何か思案しているふうであった。
「クルマライネンはあそこへはいってない。あれは俺と同じで、肺が悪いんだ。結核だ。こう寒いと、皆、胸をやられちまう。まあ、それで軍隊には入れなかったんだ」
「それじゃ、ハッカネン署長が?」
思わず神谷はそう言った。
誰がアドルフの父親なのか早く知りたくて、気がはやってしようがなかった。
「うん、そうだ。ハッカネンだ。さっきも言ったが鍵屋のオラヴィと俺は子供の頃からのつき合いなんだよ。そのオラヴィがドライアイヒの話をする時には、いつもハッカネンの名前がでてくるんだ。
ハッカネンとオラヴィは大戦の時ずっと同じ隊にいたらしい。
それで、ハッカネンはオラヴィの下についていたそうだ。
あいつらは大戦が始まって二年間ほどはスオミにいたんだが、戦争が激しくなるとドイツに従軍していった。
クオピオから行った者は、皆ドライアイヒだったと聞いている」


「ありがとう、マスター」
神谷は礼を言い、腰を上げようとした。
その神谷の肩を軽く叩き、神谷を椅子に座り直させると、マスターは眼に親しげな優しい色を浮かべ、これだけは伝えておきたいとでも言いたげに続けるのだった。
「俺が子供のころ、親父によく聞かされたものだった。
ヤーパン(日本)という国は魔法の国だと。ちっぽけな国のくせして、どでかいロシアを打ち破ったんだからと。
どこにあれだけの力を秘めているのか見当もつかん、ヤーパンのおかげでスオミフィンランド)はロシアに国を奪われずに済んだんだと。
親父がヤーパンの話をするときは、いつも眼が輝いていた。
俺たちの世代の者は皆、ヤーパンに尊敬と憧れを抱いていた。今でもそれは同じだろ」
そう言って、マスターは神谷の両手を力強く握りしめた。


「ありがとう、マスター」
神谷は胸の奥に熱いものが湧いてくるのを感じていた。
「さあ、行け」
マスターは神谷の背を押すようにして促し、
「幸運を祈ってるぞ。ここまで来たら、後はいっきに突っ走るしかないぞ」
「…」
「そんな神妙な顔しなくてもいい。こんなちっぽけな町で、しかも日本人がちょろちょろ動き回っていれば、知りたくなくともいろんな事が耳に入ってくる」
戸口で立ち止まった神谷に、マスターはニヤっと笑って片眼を閉じてみせた。
それから、神谷に向って、追い払うような仕草で手を握り、
「さあ、行け。幸運を祈ってるぞ。ヤパニライネン(日本人)よ」


(第35章その3へ)