第40章その2

(第40章その2)


神谷は顔を輝かせた。
〈そうか、忘れていた。アランド島へ行く船も嵐で遅れたんだった。大雨が降っていれば誰も甲板に出て来やしない。
ハッカネンはその機会を十分に利用したんだ。アドルフを海に突き落とすのは、何も危険なことではない〉
トラック運転手から以上の事実を聞き出すと、神谷は空港へタクシーを飛ばした。
コペンハーゲン行きのフライトに乗るためだった。
空港へ着いたのが午後七時十分。
コペンハーゲン行きのルフトハンザ航空便は二時間前に離陸していた。
次のフライトは、同じルフトハンザ航空の二十一時四十分、それが最終便だった。
二時間半、待つほかない。


男が証言した事実を裏付けるためにも、コペンハーゲンからストックホルム行きの船の中でアドルフと一緒にいたハッカネンの姿を目撃した人物を他に見つけておく必要があった。
それは、さほど難しい問題ではないように思えた。
男のいうとおり、船内のバーにいたバーテンダーがハッカネンたちの姿を目撃しそれを覚えている公算は十分にあるのだから。
飛行機がコペンハーゲンに到着したのは二十三時二十分。
神谷は時計をにらんだ。
税関を終え、今すぐ港へ駆けつけても零時を回ってしまう。
どうにも動きのとれない時間だ。
どうすべきかためらったものの、ともかく港まで行ってみることに決めた。


港の事務所がまだ開いていれば、六月十二日コペンハーゲンストックホルム間の船に乗っていたバーテンダーの名前と住所を確かめておける。
事務所には、明りがついていた。
リューべックからのフェリーが午前一時に着くことになっているのだ。
「助かった」神谷はタクシーを待たせておいて、事務所のドアを叩いた。
バーテンダーの所在を問う。
「オルガソンのことだね。ああ、彼なら今ごろはバルト海の上にいる。明朝八時、ストックホルム着の船に乗っている。
彼に会いたいって? それなら、ストックホルムの港近くにあるグスタフホテルを訪ねるといい」


グスタフホテルは船員の宿舎として使用されているということであった。
それともう一つわかったことは、コペンハーゲンストックホルム間の船では乗客名簿といったものは記していないということであった。
乗客の人数をチェックすることも滅多にないらしく、乗船時と下船時の乗客数が違っていてもそれに気がつくなどということはない。
神谷が空港に戻ったのは午前一時過ぎだった。
空港近くのホテルに宿をとり、数時間眠った後、午前七時始発のストックホルム行きフライトに搭乗した。


(第40章その3)

第40章その1

第40章その1


十一月二十三日午後六時、神谷はようやく目ざす男の居所をつきとめた。
男は、ドライアイヒ市スプリンゲン通りの安酒場のカウンターで、ビールを浴びるようにして飲んでいた。
神谷はハッカネンを打ち崩せる自信があったわけではない。
だが、もし自身の推理が正しければハッカネンの仮面をはぎとれる、神谷はそう確信していた。
男は、六月にストックホルム行きの船の中でアドルフを見かけたと証言した大柄なトラック運転手であった。
「六月にストックホルム行きの船の中でアドルフを見ましたね。そのとき、アドルフと一緒にいた男は、この写真の男じゃないですか」
神谷は男の隣に腰かけ、声をかけた。
そして、ハッカネンの写っている写真を男に見えるようにカウンターの上に置いた。


神谷にとって、まさに運命の一瞬といってもよかった。
神谷は緊張で体をこわばらせた。
男はジョッキをカウンターに置き、ソーセージのように太い指で写真をつまみ上げ、しげしげとそれを見た。
そして、写真を指で弾き、
「そうだ。アドルフと一緒にいたのはこいつだった」
「本当か! この男に間違いないんだな!」
神谷は男の広い肩を思わず揺すった。
「この男だ。間違いない。俺の見たのはこいつだ。そういや、肘のあたりに大きな傷跡があったな」
「傷跡だって! そうなんだ。そのとおりなんだ。奴の右肘には大きな傷跡があるんだ!」
ストックホルム行きの船の中でアドルフと一緒にいたのはハッカネンだということが、これで確実なものとなった。


神谷は、こみあげてくる希望と興奮をどう抑えてよいかわからなかった。
唇を震わせ、写真の顔を凝視した。
ハッカネンはタリアを殺害したあとすぐにアドルフの殺害にとりかかった。
アドルフの所在はハッカネンなら確認できていたとみなしてよい。
それに、アドルフの動きも知っていたと。
アムステルダムを発ちコペンハーゲンに行き、そこからアドルフと一緒の船に乗りストックホルムへ向った。
船の中でアドルフに麻薬を飲ませる機会は十分にあったろう。
甲板へアドルフを誘い、そこから海に突き落とした。
アドルフが麻薬を飲んだ状態であるなら、彼を海に放り込むのは容易なことであったろう。


そう考えた時、神谷は自身が見落としている重大な事実に気がつき、あっと声をあげた。
ハッカネンたちが甲板に出ていた時刻を九時から十一時頃とすれば、他にも何人かが甲板にいたはずだ。
ハッカネンはそこで一つの危険を冒すことになる。
誰かに目撃される可能性は大いにある。
しかも、あの時は白夜で空は明るい…。
結果的には、奴がアドルフを海に落とす現場を目撃した人物はいないはずだが。
それにしても、タリアとアントンを完全犯罪に近い状態で殺したハッカネンが、そのような危険をあえて冒すだろうか…。
神谷は、自身の心に湧き起こった疑問を男に問うた。
「船がストックホルムに近づいた頃、甲板に人はどれくらいいた?」
男は肩をすくめ、
「誰もいやしないさ。あの日は海は時化で大雨だったんだ。甲板になんか出た日にゃ、濡れねずみになっちまうさ」


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第39章その3

(第39章その3)


「一人いたわ。刑事さんがさっき話した男の特徴に似ているわ。
三十代半ば、金髪だったと思う。
うーん、妙だけど、あの男のことはよく覚えてるの。
わりとハンサムで、好みのタイプだったんだけど」
自身の身体にしみやくすみが出来ていやしないかと、入念にチェックしながらリサは語り始めた。
黒いビキニの下着からはみ出た白い尻が、わいせつで挑発的だった。
警部は慌てて視線をそらすのだった。


「タイプなもんだからせっかくこっちが気分を出してるのに、相手はインポじゃない。なんだか馬鹿らしくなって」
「その男をののしってやった」
リサの言葉をついで、警部は言った。
「そうなの。頭にきて、そいつをさんざ馬鹿にしてやったわ」
「どういうふうに」
リサは警部の方に向き直り肩をすくめて、口元にうす笑いを浮かべた。
「ちょっと言いすぎたかも知れないわね。こう言ってやったの。インポ、あんたなんかとやろうなんて物好きな女は一人もいやしないわ。
自分一人ででもできないなんて、みじめな男」
「ずいぶん酷いことを言ったもんだ。で、男は君に乱暴しなかったかね」


「しようとしたわ。出て行けって言ってやったらものすごく怖い顔をして、狂ったみたいな気持ち悪い目でにらみ返してきたわ。
そして、急にとびかかってきて、首をしめようとしたわ。だから、あいつの急所を蹴り上げてやったの。いいざまだったわ。
あそこを押さえて逃げていったわ。みっともないったらなかったわ」
「それはいつごろのことかね」
「うーん、今年の一月ごろだったと思うわ」
警部はうなずいた。
娼婦街をあたってみようと思いたったのは幸運だった。
リサのところへ来た男を本命とみて間違いあるまい。
あとは、リサが男についてどれだけのことを知っているかだ。
警部は掌に吹き出した汗をズボンにこすりつけた。


「男がインポだとわかる前は、なにか話でもしたんだろう?」
「そりゃ、話ぐらいするわよ」
「聞かせてもらえないか? どんな話だったのか」
リサは警部のそばへ近づき、片眼を閉じてみせた。
「お安い御用よ。話したことといったらほんの二言だけなんだから。どこに住んでるの、何をしてるの、それを聞いただけ」
「それで、男の答えは?」
ユトレヒトに住んでるっていってたわ。わたしもこの仕事をやる前はそこに住んでたのよ。こう見えてもさ、銀行に勤めてたのよ、二流の銀行だったけど。
もう五年も前のこと。
誰もそんなこと信じてくれないよね」
「それで、男は何をしてるって?」
リサの身の上話を聞いている余裕はなかった。
警部はリサに話の続きを促した。


「わたしの身の上話なんか聞いてもつまんないわよね。いいのよ。娼婦の過去なんか聞いても役にたちゃしないからね。そうね、男が何をしてたかだったわね。工場で働いてるって言ってたわ」
「それは、どんな工場で?」
「うーん、思い出せない」
「ガラス工場とか靴を作っているとか」
「違うわ、そんなんじゃなかった。何かを作ってるんじゃなくて、修理してるって言ってたわ」
「修理? たとえばラジオの修理だとか、家具の、車の」
「それ、それよ、あいつは車の修理工場で働いてるって言ってたわ」

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第39章その2

(第39章その2)


警部は席をたち、窓辺に近寄った。
視線を北の方へ向けると、運河沿いの一角に男たちがたむろしている光景がかすかに見える。
娼婦街、『飾り窓の女』のいる通りだ。
数分間、物思いにふけりながらじっとその通りに視線を注いでいた警部は、何事か決心したようにさっとカーテンを引いた。そして、
「何かつかめるかも知れん」とつぶやいた。


娼婦街を調べるにあたって、警部はユトレヒトをその捜査範囲に入れなかった。
犯人が凶行を犯しているのはアムステルダムにおいてであり、犯人が娼婦との性交渉をもとうとしたのも地元ユトレヒトではなくアムステルダムであっただろうと考えたためだった。
もし、アムステルダムにあるいくつかの娼婦街に犯人が足を踏み入れていなければ、その時はユトレヒトを調べてみればいい。
手ごたえがあったのは、警部が娼婦街を探り始めて四日目の夜、十一月二十三日のことだった。
前日までに二つの娼婦街を調べ終え、その夜は警部にとって三つ目の娼婦街だった。
それまでに会って話を聞いた娼婦の数は四十にのぼっていた。


その娼婦リサのいる通りは、ダム広場から東へわずか二百メートル離れた場所にあった。
通りの始点にあたる場所の右側にはオールナイトのレストランがあり、娼婦との一戦を終えたばかりの連中が自身の物より二回りは大きいであろうソーセージを口にくわえ込んでいる。
左側にはポルノショップが小さな入口を開けている。
中に人影はない。
通りの両側に飾り窓は三十あった。
幾人もの男が、大半は観光客であるが、娼婦が媚態を見せる窓をニヤニヤ笑いながら行ったり来たりしている。


リサは、黒髪をカーリーヘアーにしたどこか野性的でエキゾチックな感のする女だった。
細い長身と長い脚。
黒のブラジャーと黒のガードル、そして黒のブーツといった格好。
バンヘルデン警部は女に警察手帳を示し、身分を明らかにしてから用件をきり出した。
「これから尋ねることは性的な質問になるが、ある重大事件を解く鍵になるかも知れない、非常に重要な質問なんだ。ぜひ協力して欲しい」
「役に立てるかどうかは、わかんないわよ」
リサはそう言うと、警部を部屋の中へ入れた。
「実は、男を捜しているのだが、男の人相は金髪で三十代。どうやら男は不能らしい、とそんなことしか分かっちゃいない。
君が相手にした客の中に、そんな男がいなかったか教えてくれないか。
やぶから棒の話だが、たとえば、男性器を使わず他の器具で代用したりする不能者はいなかっただろうか」


「そうね…」
と言って、リサは揺り椅子にもたれかかった。
長い脚を組み、片手を顎の下に持っていき、つかの間、記憶をたどっているふうであったが、
「そうね、インポの連中ときたらたいていはゴムでできた器具を使うわ。あたいのあそこに、それをこんなふうに押し込もうとするのよ」
リサは手で動きを示して、いやそうに顔をしかめた。
「そういう客はどれくらい来る?」
「うーん。月に一人かそこいらね」
「年は?」
「五十過ぎの連中が多いわ、ああいうのは」
「五十以下でそんな客はいないかね」
リサは思い出すかのようにゆっくりと大きくうなずき、揺り椅子から降り立ち、等身大の鏡の前に立った。


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第39章その1

第39章その1


バンヘルデン警部が娼婦街を探り始めたのは、彼のほんの思いつきから出たことだった。
ユトレヒト市内外を隅から隅まで捜査したにもかかわらず、犯人は網にひっかからない。
刑事の中には、犯人はどこかへ雲隠れしたのではないのかと考えるものもいた。
が、バンヘルデン警部はそうは思わなかった。
なぜか分からぬが本能的に、犯人はまだユトレヒトにいる、そんな気がするのだった。
しかし、捜査をユトレヒトに絞って一ヵ月余りが過ぎるのに、いっこうに犯人の足跡をつかめないでいる現状に内心焦りを感じ始めていた。


ただ、これだけ大がかりな捜査を展開しているのに犯人を挙げられないのは、犯人のイメージが漠然としすぎているからではないだろうか。
警部はそんなふうにも思っていた。
金髪をした三十代半ばの男でクラシック好き。
そんな男はユトレヒトに何百人もいるだろう。
外面的なイメージをもとに犯人を追うより、むしろ犯人の内面的なイメージをつかみ、それをもとに追った方が確実なのではないだろうか。
犯罪現場で犯人の姿を目撃した人間が五人いれば、犯人像は五通りでき上がってしまうのが常だ。
今回の事件では、少女の見た男と印刷工場に勤務するウェルネキンクの目撃した男のイメージはほとんど同じだが、これだけでは材料が乏しすぎる。


暗い運河にぼんやりと視線を落としていたバンヘルデン警部は、ふとそんな思いにかられ、自分の机に戻った
レオン・カレヴォルトにあてた犯人の手紙を読み返す。
何度読んでみても、吐気を催したくなるほどの異常で偏執的な文面だ。
何か犯人を追うのに役立つような暗示的な文章が混じっていやしないか、犯人が自身でも気づかぬうちにそんな文章を書いていやしないか、細心の注意を払って警部は手紙に目を通した。
読み終えると、警部はぐったりして天井を仰いだ。
この手紙を読むと実に気が滅入る。同じ人間なのにどうしてこのような異常な人間が突然変異のごとく現れ出てくるのだろうか。


気がかりな点が二つあった。
今までは、手紙の文面から犯人の足取りをつかもうなど誰も思いもつかないことであったが、今はワラにもすがりつきたい状況なのだ。
バンヘルデン警部は手紙のコピーに二箇所線を入れた。
一つは冒頭の文章、『お前の女は売女だ』であり、あと一つは同じ段落の最後、『神を馬鹿にした奴は、死をもってその罪を償わされるのだ』であった。
『神を馬鹿にした奴』という文章は、『俺を馬鹿にした女』と置き換えて考えた方がよく分かる。
『お前の女は売女だ』は、犯人はこの手紙をレオン・カレヴォルトにあてて書いているが、全体の文面は特定の女つまりキティ・ションクを指しているのではなくすべての女を指していることから、『女は売女だ』と考えることができる。


バンヘルデン警部は自分なりの解釈を続けた。
二つの文章から考えられるのは、犯人は女に馬鹿にされ、それがきっかけで凶行を犯し始めたということだ。
そしてその女とは、売女という言葉を侮蔑の象徴として使っていることから娼婦ではないだろうか。
犯人はある時、娼婦を抱いた。
しかし、恐らくそれはうまくいかなかったのだろう、娼婦はその男を馬鹿にした。
男にとってそれは耐えられない屈辱だったに違いない。
そして、男は自分を馬鹿にした『女』に復讐をしようと考える。


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第38章その2

(第38章その2)


ハッカネンをタリア及びアントン殺害の犯人として追い詰めるにたる証拠をつかめないでいる今、神谷にはなぜかアドルフ殺しを解決することがハッカネンを追い詰めることにつながるように思えるのだった。
そして、アドルフ殺しの犯人はハッカネン以外には思い浮かばなかった。
しかし、そう考えるには、どうしても無視できない事実―ハッカネンはアドルフをかばった―があり、それが神谷の推理に大きな障害となっていた。
〈ハッカネンがアドルフを殺すとして、その動機に何がある。それがわかれば、この事件は解決する〉
神谷は一心にそのことを考え続けていた。


〈俺はハッカネンがアドルフをかばったものとばかり思っていたが、果たしてそう言いきれるものだろうか。ハッカネンがアドルフを殺した理由…。
息子の犯罪に絶望したためだろうか。
違う。
絶望したのであればタリアやアントンを殺す以前にアドルフを殺しているはずだ。まして、タリアたちを殺す必要は毛頭ない〉
通りを走る市電の音が大きく響き、神谷の思考をいっ時中断した。


〈ハッカネンはアドルフの存在が邪魔になった。この考えはどうだろう。
アドルフが存在する限り、ハッカネンにとってクオピオ事件の真相が暴かれる危険性がある…〉
この思いつきはたちまちにして神谷の頭の中を駆けめぐり、胸を高鳴らせた。
神谷はベッドにうつ伏せになり、考えに没頭した。
一つの推理が組み立てられるのに、さほど時間はかからなかった。


〈最初から始めよう。クオピオ事件で、ハッカネンは容疑者の一人であるアドルフを逃がした。理由は。
息子のアドルフをかばったため? 違う。
そうじゃなかったんだ。
ハッカネンは自身の身を守るためにアドルフを逃がした。アドルフがクオピオ事件の犯人となれば、ハッカネンにとって自分の息子が殺人犯となるということだ。
それは同時に、ハッカネンの三十余年前の過去を露呈することにもなる。
仮に、アドルフが犯人と見なされればハッカネンはどうなるだろうか。
奴は警部としての地位を失くしてしまっていただろう。
家庭内でもとり返しのつかない深い傷を作ってしまうことになっていただろう。
奴に残されるのは殺人犯を作ったという汚名だけになるだろう。
アドルフを逃がしたのは息子をかばうためと考えていたが、その裏にはハッカネン自身の身を守る意図があったのではないのか。


アントンとタリアを殺したのも、アドルフの罪を暴露されるのを恐れてではなく、事件の真相を探られるのを危惧してのことだった!
アントンあるいはタリアがクオピオ事件の全容を知れば、それはハッカネンの裏面を暴くことになる。
アントンそしてタリアとたて続けにクオピオ事件の真相を探る人物が現われ、二人を殺したものの第三の人物が現われない保証はどこにもない。
ハッカネンにとって真相がいつ探り出されるか不安であったはずだ。
アドルフが捕まり、事件を自白する恐れは多分にあるのだから。
アドルフが調べられるにつれ、ハッカネンとの結びつきがさらけ出されるといった不安が残る。アドルフを殺せば、事件を知る者はハッカネン一人となる…〉


神谷はそう推理すると、手帳を取り出した。
タリアの殺害された時間とアドルフの死亡したそれとを比較する。
タリアはアムステルダムにおいて六月十一日午後九時半前後に、アドルフはストックホルムで六月十二日午後九時から十一時の間に死亡している。
アドルフは海に落とされた。
それは時間的にみて、船の上からでしかありえない。
神谷は窓の外に拡がる闇をにらんだ。
「俺の推理が正しければ、これが奴の悪を暴く決め手になる」


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第38章その1

作品解説:この長編小説は第24回江戸川乱歩賞最終候補作となりました推理小説「タリア」を選評(「文章が粗いので受賞は諦めたが一番面白く読んだのはこの長編小説だ。惜しい、まったく惜しい」「文章を修正すれば名作になったかもしれない」にもとづいて加筆訂正しております。物語は日本人青年がアムステルダムで殺害されたフィンランド人の恋人タリアの死に疑問を抱き、北欧を舞台に謎を解いていくという長編小説(推理小説)です。


第38章その1


アントンの車は、ヘルシンキ市内から五キロ離れた幹線道路沿いのスクラップ場に運びこまれていた。
それを知るのはさほど難しいことではなかった。
ヘルシンキ市警察へ足を運び、アントンの事故処理記録を見せてもらっただけでよかった。
事故後、車がどのように処理されたか、大破した車ならどこのスクラップ場へ持っていかれたか記録されているのだ。
翌朝、神谷らはスクラップ場へ駆けつけた。


鉄条網で囲まれただだっ広い敷地にはおびただしい数の車が放置されている。
そして、敷地の一角ではクレーンの先に取り付けられた巨大な鉄の爪が車をつまみ上げ、クラッシャーに次から次へと放り込んでいるのだった。
クラッシャーにのみこまれた車の運命はひどいものだった。
数秒後には、六十センチ四方の鉄の塊に圧縮されてしまうのだ。
神谷はその光景を視界の端にとらえ、不安な予感に襲われた。
アントンの車が、あのクラッシャーに放り込まれているとすれば、もはや望みはない。
赤い帽子を頭にのせた男は、口を尖らせ面倒くさそうに、
「日本製のトヨタ・コロナだって? Hの一七三ね。いつここへ運ばれたって?」
「一月十七日です」


「なんだって? そんなものとっくに潰しちまってるよ。ここに置いとくのはせいぜい三ヵ月かそこいらだ。見なよ、月に二回はああやって、潰しちまうんだ」
〈もうだめだ。これで、事件解決の望みは断たれてしまった〉
ハッカネンを陥落させるすべての道は閉ざされてしまった。
神谷は遠くを見るような寂し気な瞳をアキに向け、静かに首を振り、一人でその場を去って行った。
がっくり肩を落とした神谷の後ろ姿を、アキは無言で見守るほかなかった。
今の神谷に何を言っても、それはただのなぐさめにしかならない。
「あと三日あるじゃないか。諦めるには早いさ」、そんな言葉はかえって神谷の失望を深めるだけだとアキにはわかっていた。


神谷がヘルシンキ市内へ戻ったのは、その日の一時頃だった。
駅前でバスを降り、中央郵便局へ立ち寄った。
日本から手紙が届いていれば、局留で保管されている。
神谷宛ての手紙は一通あった。
大学の友人からのもので、大学での講義の進み具合を記し、進級試験が迫っているから早く帰ってこいと忠告してくれていた。
神谷は手紙をコートの奥にしまいこんだ。
帰国日は間近に迫っていた。


十一月二十三日早朝、神谷はふいに眠りから覚めた。
夢にうなされていたのか体中がじっとりと汗で濡れていた。
枕元に置いた腕時計に目をやる。
午前七時。
神谷は起き上がり、電灯をつけてから、窓辺へいった。
二重窓の、内側の方のガラス窓を開け、そこからレモンを取り出した。
そこは室内の暖房と外の冷気とのちょうど中間温度を保ち、冷蔵庫代りに使うには申し分なかった。
レモンを半分に切り、汁を口の中へ流し込む。
口の中にたまった種子をくずかごへぷっと吐き捨てる。
学生時代から続いている毎朝の日課だった。
「あと二日か」
まっ暗な外を見ながら、神谷はため息まじりにつぶやいた。
数分間、窓の外を見ていたが、神谷は再びベッドに入った。
考えることは一つしかなかった。
アドルフを殺したのは誰か。
それが気になっていた。
〈アドルフは一連の事件に関係して殺されたのだろうか…。そうだとすれば、ハッカネンが一番怪しい。しかし、ハッカネンがアドルフを殺す道理がない。奴はアドルフをかばったぐらいなんだから…〉


(第38章その2へ)